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けんぶつ

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

見仏

 報身応身の仏身に会うことをいう。
 凡夫二乗分別をもつ人間が会うのが応身仏であって、菩薩無分別心で会うのが報身仏である。宿縁のないものは応身仏にも出会うことができない。
 仏身を見ること。仏のすがたを目の当たりに見て、礼拝すること。

凡夫・二乗の心に会うことができる者を、名づけて応身とする。諸々の菩薩が、初発意から菩薩究竟地までの心で会うことができるのを、名づけて報身とする。〔大乗起信論, T32.579b〕

その必要性

 仏に会うことがなければ、仏から受記を受けることができないので、仏となることができない。そこで、仏に出会うことが必要となる。そのために仏国土往生する必要が生じるのである。それが浄土に往生することの一番の意義である。

仏性

tathāgata-darśana (S)
 自己の仏性をさとること。見性に同じ。

燃灯仏

 宗教という世界においては、たしかに、客観的な事実や歴史的な真実のみが意味をもつのではない。たとえ神話であれ物語であれ、大事なのは、ひとえにその宗教的意味であり、宗教的真実である。
 大乗仏教は釈尊を解釈し、掘り下げていくなかで、宗教的真実を体現している仏陀に出会い、その仏陀の核心を弘く伝えようとしたのであった。「燃灯仏授記」物語を構成する大事な要素のひとつは、先輩の仏に目のあたりに出会う体験が出発点となる、ということである。しかもその仏は、向こうからお出ましになるのである。
 とはいえ、仏に出会うには、こちら側のなんらかの条件も熟していることが必要である。たとえば、経典や仏書を読む。その読書のなかに目のあたり仏に出会うことだって、人によってはあり得る。仏像や寺院建築に触れて、ひそかに仏に出会う人もいるであろう。
 仏の出現は、スメーダ青年には決定的な出来事であったが、町の人々に等しく同じ出会いがあったわけではなかった。仏の出現は、その人その人にとっての因縁が熟しての出来事なのであり、客観的事実としてあるのではないにちがいない。
 次に、出会う仏はひたすら他者の苦悩を引き受け(代受苦)、自在に救済している人であることを、見落としてはならない。そのことに触れて、旧来の自己がまったくくつがえり、他者とのかかわり合いのなかにある自己に気づかされる。そこから生き直そうとするとき、すでに我々は大乗仏教徒の仲間入りを果たしてしまうのである。