おうじょうそくじょうぶつ
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
往生即成仏
往生は即ち成仏であって、この2者が別で異なってはいない、といる意味である。
主として、浄土真宗において唱えられる法義であって、『教行信証』証巻に
- 大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。〔信巻末、p.254〕
また
- まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。〔〃、p.264〕
と言われているのが、その意味である。
これは他の浄土諸派においては、浄土往生以後漸次三賢十聖の階位を経て、ついに一生補処にいたることを説くのに対して、浄土真宗では南無阿弥陀仏の妙行を信受する一念に、仏因満足して正定聚の位に住し、さらに命終の刹那に真実報土に往生する時、すなわち大般涅槃を超証する、として化土には品位階次の差別がある。しかし、真実報土は平等であってそれらの差別がないから、往生と同時に成仏するという意味である。
けだし、この説は西山流においても、同じように唱えられたようである。証空の『修業要決』に
- 本願は機の功を取らざるが故に、他力往生を呈さんが爲に、聞名欲往生と曰ふは、五乘皆一位に往生成佛する故也。〔修業要決、T83.0379b〕
と言い、また了音の『観経玄義分抄出』末には、
- 平生臨終の証得当得の二の往生、全く別の物には非ず。唯だ知識の言を聞きて臨終に決して生ずべき謂れを思ひ定むる信心なり。而るを証得往生を事事敷く云ひ為して、証得往生は浄穢不二、凡聖一如、往生成仏一体にして、即身成仏の法門に云ひ同ずる義勢は、実に左もや有らん。是非にも及ばず。此の家の所存には非ず。取捨人為に在るべし。
と言っている。
これらは、善導の『般舟讃』に「不覚転入真如門」と言い、また法照の『五会法事讃』に「念仏成仏是真宗」等と言うのに基づき、さらに日本の天台宗のいわゆる「本覚思想」に影響されたものであろうが、浄土教としてはその当分を跨越したものであるというべきである。