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かじ

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

加持

adhiṣṭhāna アディシュターナの訳。

 原意は、寄りそって立つこと、住所などの意味で、相応し、かかわりあうこと。護念、加護などともいう。
 そこから、仏・菩薩が不可思議な力によって衆生をまもることをいう(神変加持(じんぺんかじ))

 “仏または菩薩が衆生を守護し教化し指導する目的で、慈悲心から超自然的な現象を生ぜしめる”ことであり、神神や人人も時にはその能力を持つことができる。誓願(祈願)・奇跡・恩寵等の意味が含まれている。

 加持とは「仏または菩薩が衆生を守護し教化し指導する目的で、慈悲心から超自然的な現象を生ぜしめることであり、神神や人人も時にはその能力を持つことができる。誓願(祈願)・奇跡・恩寵等の意味が含まれている」

密教

 仏が大悲と大智とによって衆生に応ずるのを「加」といい、衆生がそれを受け持つのを「持」という。
 要するに仏と衆生とが相応し一致することをいう。この場合、仏の三密と衆生の三密とが相互に相応し入りまじって他を己れにおさめたもち、種々の妙果を成就させるから、そのことを三密加持(さんみつかじ)という。

三密加持

 行者が自ら手に密印を結び、口に真言を調し、心は三摩地(さんまじ)に住する自行加持と、曼茶羅阿闍梨(まんだらあじゃり)について、褐磨(かつま)を具足し、普賢三摩地をもって金剛薩埵(こんごうさった)を己れの身中に引き入れる阿閣梨加持とがあって、この二種の三密加持によって現身に菩提(ぼだい)を証することができるといわれる。

呪禁作法

 転じて呪禁の作法も加持という。例えば五処加持とは、行者自身が過去の罪業を除き、本来具えている五智の功徳を顕わすために、身体の五ヶ所(額、両肩、心、頭頂あるいは喉)に印契(いんげい)または杵鈴(しょれい)などの法器によって加持すること。また加持香水(こうずい)とは、心に香水を清浄にしようと念じ、明呪(みょうじゅ)を讃したり印契を持って加持すること。その他、加持供物写、加持念珠も同様に供物や念珠を清浄にする禁呪の法である。この場合に用いる印契と明呪を加持印明という。

加持祈禱

 祈禱と同じ意味に用いることもある。例えば牛黄加持(ごおうかじ)(牛王加持とも書く、安産のために牛黄香水によって産門に加持する)、帯(おび)加持(安産のための岩田帯に加持する)、土砂(どしゃ)加持(病を除いたり、亡者の罪を滅するため、墓または死骸の上へ撒布する土砂を光明真言によって加持する)、刀(かたな)加持(悪魔や狐憑(きつねつき)などを払うために刀を不動明王の表示である利剣と観じて加持する)などである。

加持

adhiṣṭhāna (S)
 護念、加護。原意は、一説によれば「強力に立つ」であるが、仏教経典では仏または菩薩が衆生を守護し教化し指導する目的で、慈悲心から超自然的な現象を生ぜしめることであり、神々や人びとも時にはその能力をもつことができる。誓願(祈願)、奇蹟、恩寵などの意味が含まれている。
 中国訳経史上で「加持」が用いられるようになったのは7世紀中頃以来であり、それ以前は「建立」、「威神」、「神力」などと訳語が一定していなかった。725年、善無畏・一行訳の『大毘盧遮那成仏神変加持経』(T18)に、加持という訳語がもちいられ、この経の重要性がadhiṣṭhāna(=加持)を定着させたと考えられる。一行の『大日経疏』によると、経題中の「神変加持」とは旧訳には「神力所持」または「仏所護念」といい、その意味は仏が一切衆生救済のために自在神力加持三昧に住して、種々の身を示現し種々の法を説き種々の観照門を開くことであるという。ここには神変と加持との区別はないが、蔵訳の『大日経広釈』によると、神変とは仏が現ずる種々の不思議であり、菩薩たちがこれを見聞触知することができる。しかし菩薩以下の衆生はこの神変を見ることができないから、これらの衆生のために仏が真言印契曼茶羅幖幟として示した、これを加持というとある。
 一行によればこのような神変加持の根拠は大日如来の広大無辺な智慧(一切智智)と衆生救済の大悲方便とである.この大日如来とか一切智智とかは、仏教思想史上の仏身と智慧との最終的形態と考えられるが、その内実は結局、法身空性智とである。神変はともかく、真言・印契・曼茶羅といった有相有形のものがなぜ、無色無形の法身や空性智と結びつくのか、ここに「仏の威力、神力を強力に立てる」こととしての加持なる概念が密教の成立と対応して登場してくる理由がある。というよりむしろ加持なる概念が大乗を密教へと転換媒介した最重要な概念かもしれない(この場合、無相と有相の関係の解釈は二諦の論理による)。もちろん、仏の威神力が集約的に保持され、これをとなえることによって世間的あるいは出世間的な功徳をもたらすと考えられていたものに陀羅尼がある。この起源は紀元前にまでさかのぼれるようであるが、陀羅尼は言語に対する威神力の付与であり、密教における曼茶羅や印契までは包摂できない。これらは意業と身業とに関わるものだからである。ここに加持なる語が密教において重要な位置を占めるにいたった理由がある。加持とは仏の神力が加被摂持されること、あるいはものであるが、これには人と人、人と法とのあいだにおける不可思議な作用の意味もある。すなわち三密加持(仏の加と行者の持)によって即身成仏した阿闇梨が修する息災・増益・降伏などの世間的な加持祈祷と、成仏に関わる出世間的な加持の修法とであり、このうち前者は利他門、後者は自利門といえる。