しょうしょうりしょう
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
正性離生
聖性離生
samyaktva-nyāya (S) 倶舎では「正性」とし、唯識では「聖性」とする。
無漏智を生じて煩悩を断ずるを聖性という。声聞縁覚の二乗は見道の位に入って一分の無漏智を生じ分別起の煩悩障を断ず。菩薩は一分の無漏智を生じて煩悩所智の二障を断じ、以って一分の聖生を得て永く異生の生を離るるを聖生離生と云ふ。
二乗の見道、現在前時に唯だ一種を断ず。聖生を得ると名づく。菩薩の見道、現在前時に具さに二種を断じ聖性を得ると名づく。〔成唯識論9,T31-52b〕
正性を得て、異生(言+比)を離れるという意味である。また、正性決定とも言う。
見道の初刹那において正性に入り、異生性を離脱することを言う。
是の如きの心心所法を等無間となし、異生性を捨して聖性を得、邪性を捨して正性を得、能く正性離生に入るが故に世第一法と名づく。〔発智論、1〕
能く正性離生に入るとは、謂く此の心心所法能く見道に入るなり。問ふ、一切の聖道は皆是れ正性にして亦是れ離生なり、何が故に此の中に独り見道を説くや。答ふ、一切の煩悩或いは諸の貧愛は諸の善根をして成熟することを得ざらしめ、及び諸有と潤合して過を起さしむ、皆生と名づくと雖も、而も見所断は此の所説の生に於いて義増上にして、見道能く畢竟対治を為す。是の故に見道を独り離生と説く。諸の不正見は要らず見道に由りて能く畢竟じて断ず、故に正性と名づく。世第一法の無間に引起せらるゝが故に能く正性離生に入ると説く。〔大毘婆沙論、3〕
つまり、一切の聖道はみな生たる一切の煩悩あるいは貧愛を断離するものだから、正性離生と名づけられたものである。見所断の生はその義が増上なのに、能く見道の為に畢竟じて対治される。よって、独り見道を説いて離生として、また諸々の不正見は必ず見道によってついに断ぜられるから、特に見道を正性と名づけるのだ、ということを明らかにしている。