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じゅうりょうろん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

集量論

(pramāṇa-samuccyaya)は、中世初期のインドの仏教論理学者・認識論者である陳那(Dignāga)の主著であり、陳那の認識論的業績の中心的論書であり、仏教教義に沿って知識の確実性を論究しようとした。この論書によって、仏教としての認識論・論理学(因明)が完成したとみられている。
 本文は偈頌と長行の典型的なインド哲学の論書の形態をとり、6章の構成となっている。
 集量論は、玄奘によって中国に持ち込まれたことは判明しているが漢訳されず、後に義浄によって漢訳されたことが判明しているが、すぐに散佚してしまっている。現在、チベット訳によって伝わっているのみである。

内容

第1章 現量

 知識には、直接知覚(現量)と推論論証(比量)の2つの手段しかない(2量説)ことが宣言される。これは、知識の確実性を論究される対象が、自相(具象:sva-lakṣaṇa)と共相(抽象:sāmānya-lakṣaṇa)の2つしかないから、その判断基準(量)もまた2つしかあり得ない、とするのである。
 陳那は、ここで古来から仏陀などの言葉であるから正しいとする判断基準(聖教量)を否定するのである。
 現量とは、分別(kalpanā)を離れた知識である。分別とは、名言(nāma)と種類(jāti)等と相応することである。よって、この知識は自相を対象(:viṣaya)とするものであり、言葉にすることはできず、感覚認識されたものはユニークである。
 さらに言うなら、仏陀がさとりえたとする事象は、現量であって、分析智ではないことが示されている。このことについては、『集量論』の現量品にくわしく説かれている。

第2章 為自比量

 比量(推論論証:anumāna)に2種あり、為自比量(sva-artha-anumāna)と為他比量(para-artha-anumāna)である。為自比量とは、三相の因によって知識を観察することである。

  1. 遍是宗法性(pakṣa-dharmatva)因は宗の主辞(前陳)に周遍すべきこと
  2. 同品定有性(sapakṣa-sattva)因は宗の賓辞(後陳)と同類のものの中になければならない
  3. 異品遍無性(vipakṣa-vyavṛtti)因は宗の賓辞と矛盾するものから遣らなければならない

第3章 為他比量

 為他比量とは、みずから観察したものを教示することである。知識がみずからに生じ、三相によって確実性が確認された時、他人にそれを説示して、同じ知識を生じさせようとするものである。
 この因の三相説によって、それまで正理が五支作法によって表されてきたものを、陳那は三支作法としたのである。陳那以後、とくに中国で五支作法が省略されて、三支作法となったと考えることが多いが、これはまったく陳那の説を理解していない、といい得る。

宗  声は無常なり
因  所作性なるが故に
同喩 瓶等の如し
異喩 虚空の如し

 このように、作られたものは無常であることが知られているので、仏陀の言葉も無常であり、それが量としては不完全であることを示す論証となっている。

第4章 喩・似喩

 譬喩として使われる普遍的知識の論究を行なっている。陳那は演繹法の論理をとっているので、この譬喩の論証が必要となってくる。

第5章 観離

 2量以外を除外する(anya-apoha)。ここで、陳那は知識の確実性を求めるためには、譬喩量を除くことを結論としている。

第6章 過類

 ここで、論理的な過誤に対して論究しており、14種類の過をあげている。

陳那以後

 陳那以後の因明研究者である法称(dharma-kīrti)は、この集量論の解説と拡張をしながら、『知識批判書』(pramāṇa-vārttika)を著わした。

参考文献

  • 仏教論理学の研究 武邑尚邦著 昭和43年、百華苑