ぜんじしき

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善知識

kalyaaNa-mitra कल्याणमित्र(sanskrit)

 kalyaaNaは、「美しい」「善い」の意味の形容詞、中性名詞として「善」「徳」の意味。mitraは「友人」。これによって、「善き友」「真の友人」、仏教の正しい道理を教え、利益を与えて導いてくれる人を指していう。「善友」とも漢訳される。
 この意味から、禅宗では参禅の者が師家をこう呼ぶ。浄土真宗では念仏の教えを勧める人、特に門徒が正しい法の継承者として門主をこう呼ぶ。

 単に知識〈ちしき〉ともいい、また善友親友勝友などと訳されてきた。梵語の「カルヤーナ」は「善い」とか「巧みなる」とかの意味であり、「ミトラ」は「友」である。この原語の意味からみれば、善知識とは単なる善い友とか親しい友とか勝れた友とかの意味だけでなく、そこには「巧みなる」意味が考えられたものでなければならないだろう。そこで、その意味は単に徳者として立派な人ということではなく、人を導き仏道に入らしめる巧みな教化者であり、人々を正しく導いてゆく巧みな教化者としての勝れた徳者をいうのである。『南本涅槃経』(巻二十三 T12 P.0511a)に

自ら悟りの道を求めて修行し、また人にも教えて悟りの道を修行せしめるもの

と説明するのも、この点からである。
 このような点で経典に善知識の性格として

人を善法中に入らしめ、不善の法を障礙し、人を正法に住せしめ、よく教化するもの    〔『華手経』十 T16 P.0204c〕

という条件を規定し、また論典には、善知識に十徳があるとして、「寂静」「調伏」「惑除」「徳増」「有勇」「経富」「覚真」「善説」「悲深」「離退」などをあげている〔『釈氏要覧』〕。
 ところで、仏教でこのような善知識を具体的にどのように考えているかというに、根本的にはこそ善知識である。しかし、その仏への道を歩ましめるものは菩提心であるからというので、教理的に、菩提心こそ善知識であるという場合もあるが、常識的には現前にある諸師をいうのである。このほか、菩提を求める人間の父母をさす場合もある。

五重の義

 また、浄土真宗が五重の義として、往生について「宿善」「善知識」「光明」「信心」「名号」の五を説く中の第二に善知識が位置していることは、仏道における善知識の地位を明らかにしたものとして注意すべきである。

意義

 この善知識を重要視する理由は師につくことによって独断と独善が排除されるからであると考えられる。このことは今日においてもたいせつなことであろう。依頼心をもたないで、すべてを自分で工夫してゆくことが正しい人間生活であることはいうまでもないが、といって先輩や師匠を無視して独立に自分だけでと力んでゆけば人類の進歩はありえないであろう。過去に集積され蓄積されているものを受け、それをより進歩せしめることがほんとうの発展になるのである。その点、善知識の重要性を素直に認めてゆくこと、歴史の自覚による自己の確立、それがほんとうの人間の在りかたである。「問うは当座の恥、問わざるは末代の恥」ということばも裏を返せば、善知識を中心として、そこに新しい進展があるということであろう。この点、善知識の意味は広く考えねばならないと思われる。