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へいぜいごうじょう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

平生業成

「臨終業成」に対する言葉で、浄土真宗の用語。

 日常に他力信心をうけた、その時に往生の業因が成就して、浄土に生まれる身に定まること、をいう。

しかれば平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。平生のとき不定のおもひに住せば、かなふべからず。平生のとき善知識のことばのしたに帰命の一念を発得せば、そのときをもつて娑婆のをはり、臨終とおもふべし。     〔執持鈔 p.865〕
『観経』の下輩は、みなこれ一生造悪の機なるがゆゑに、生れてよりこのかた仏法の名字をきかず、ただ悪業を造ることをのみしれり。しかるに、臨終のときはじめて善知識にあひて一念・十念の往生をとぐといへり。これすなはち罪ふかく悪おもき機、行業いたりてすくなけれども、願力の不思議によりて刹那に往生をとぐ。これあながちに臨終を賞せんとにはあらず、法の不思議をあらはすなり。もしそれ平生に仏法にあはば、平生の念仏、そのちからむなしからずして往生をとぐべきなり。     〔真要鈔 p.976〕
当流、親鸞聖人の一義は、あながちに出家発心のかたちを本とせず、捨家棄欲のすがたを標せず、ただ一念帰命の他力の信心を決定せしむるときは、さらに男女老少をえらばざるものなり。さればこの信をえたる位を、『経』(大経・下)には「即得往生住不退転」と説き、『釈』(論註・上)には「一念発起入正定之聚」(意)ともいへり。これすなはち不来迎の談、平生業成の義なり。     〔御文章 p.1085〕
阿弥陀如来の因中においてわれら凡夫の往生の行を定めたまふとき、凡夫のなすところの回向は自力なるがゆゑに成就しがたきによりて、阿弥陀如来の凡夫のために御身労ありて、この回向をわれらにあたへんがために回向成就したまひて、一念南無と帰命するところにて、この回向をわれら凡夫にあたへましますなり。かるがゆゑに、凡夫の方よりなさぬ回向なるがゆゑに、これをもつて如来の回向をば行者のかたよりは不回向とは申すなり。このいはれあるがゆゑに、「南無」の二字は帰命のこころなり、また発願回向のこころなり
このいはれなるがゆゑに、南無と帰命する衆生をかならず摂取して捨てたまはざるがゆゑに、南無阿弥陀仏とは申すなり。これすなはち一念帰命の他力信心を獲得する平生業成の念仏行者といへるはこのことなりとしるべし。     〔御文章 p.1149〕

 大経の意に基づき、易行品・論註教行信証などに示され、摂取不捨と功徳廻施が業成の根拠とされる。

参考:業事成弁平生往生