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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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(非想非非想處)
 
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 明勝の想はない(非想)が、劣昧の想はある(非非想)状態。粗なる想にあらず、細なる想が全くなきにあらざる禅定処。
 
 明勝の想はない(非想)が、劣昧の想はある(非非想)状態。粗なる想にあらず、細なる想が全くなきにあらざる禅定処。
  
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:874. "Na saññasaññī na visaññasaññī no pi asaññi na vibhūtasaññi, evaṃsametassa vibhoti rūpaṃ,saññānidāna hi papañcasaṃkhā."
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:874「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。――このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」 〔スッタニパータ〕
 
〔[[しゅういもんろん|集異門論]]6 T26-392b〕〔[[くしゃろん|倶舎論]]5〕〔[[いぶしゅうりんろん|異部宗輪論]] T49-15c〕〔[[ゆがろん|瑜伽論]]2 T30-292b〕
 
〔[[しゅういもんろん|集異門論]]6 T26-392b〕〔[[くしゃろん|倶舎論]]5〕〔[[いぶしゅうりんろん|異部宗輪論]] T49-15c〕〔[[ゆがろん|瑜伽論]]2 T30-292b〕
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 瞑想によって思考停止(感情停止でもある)の境地を体得することを高く評価していたのであろうか。それは瞑想が、彼らを含め、当時の出家たち一般が考えていた輪廻のメカニズムによっていたからなのである。<br>
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 当時、出家たちの一般常識としては、輪廻的生存の直接の原因は、行為(カルマン、業)であった。(これを最初に発見したのは、例のヤージュニャヴァルキャである。)「善因楽果、悪因苦果」「自業自得」というようにいい表される因果応報説では、業が輪廻の直接の原動力とされるのである。<br>
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 では、われわれは、どうして善悪の業を起こすのであろうか。それは、そうしたいと思うからそうするのである。つまり、業は、われわれの欲望を原因として起こるものだということである。<br>
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 輪廻的な生存をやめて解脱にいたるためには、善悪の業を滅ぼせばよく、そして、その善悪の業を滅ぼすためには、欲望を滅ぼせばよい。<br>
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 欲望は、感情や思考の所産である。すると、感情や思考を停止すれば、自動的に欲望もなくなるというのはまさに道理である。アーラーラ・カーラーマ仙人やウッダカ・ラーマプッタ仙人たちが、感情と思考の停止を目指す瞑想に、あれほど夢中になって打ち込み、それをみずから高く称賛したわけは、まさにここにある。

2024年8月5日 (月) 15:38時点における最新版

非想非非想處

naiva-saṃjñā-nāsaṃjñā-āyatana (S)、neva-saññā-nāsaññāyatana (P)

 表象があるのでもなく、表象がないのでもない三昧の境地。一切無所有想をも超越して、想があるのでもなく、ないのでもない という境界。
 また第一有・有頂天とも名づける。無色界の第四天で、三界の最頂部。欲界色界のような粗想の煩悩はないから非有想といい、細想の煩悩はないわけではないから非無想という。非有想のゆえに外道はここを真のニルヴァーナの境とし、非無想なるゆえに、仏者はここをなお生死の境とする、と解せられている。
 明勝の想はない(非想)が、劣昧の想はある(非非想)状態。粗なる想にあらず、細なる想が全くなきにあらざる禅定処。

874. "Na saññasaññī na visaññasaññī no pi asaññi na vibhūtasaññi, evaṃsametassa vibhoti rūpaṃ,saññānidāna hi papañcasaṃkhā."
874「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。――このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」 〔スッタニパータ〕

集異門論6 T26-392b〕〔倶舎論5〕〔異部宗輪論 T49-15c〕〔瑜伽論2 T30-292b〕


 瞑想によって思考停止(感情停止でもある)の境地を体得することを高く評価していたのであろうか。それは瞑想が、彼らを含め、当時の出家たち一般が考えていた輪廻のメカニズムによっていたからなのである。
 当時、出家たちの一般常識としては、輪廻的生存の直接の原因は、行為(カルマン、業)であった。(これを最初に発見したのは、例のヤージュニャヴァルキャである。)「善因楽果、悪因苦果」「自業自得」というようにいい表される因果応報説では、業が輪廻の直接の原動力とされるのである。
 では、われわれは、どうして善悪の業を起こすのであろうか。それは、そうしたいと思うからそうするのである。つまり、業は、われわれの欲望を原因として起こるものだということである。
 輪廻的な生存をやめて解脱にいたるためには、善悪の業を滅ぼせばよく、そして、その善悪の業を滅ぼすためには、欲望を滅ぼせばよい。
 欲望は、感情や思考の所産である。すると、感情や思考を停止すれば、自動的に欲望もなくなるというのはまさに道理である。アーラーラ・カーラーマ仙人やウッダカ・ラーマプッタ仙人たちが、感情と思考の停止を目指す瞑想に、あれほど夢中になって打ち込み、それをみずから高く称賛したわけは、まさにここにある。