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− | + | 自性を立てて「[[ほう|法]]」(dharma)の体系を確立した[[せついっさいうぶ|説一切有部]]に対し、[[りゅうじゅ|龍樹]]は主著『[[ちゅうろん|中論]]』において、相依(そうえ)・相待(そうたい)の[[えんぎ|縁起]]説を新たに展開し、その理論により自性を根底から覆して無自性を徹底させ、ここに自由で広大な「[[くう|空]]」のありかたが浸透する。<br> | |
+ | '''「無自性 = 空」'''は、実体的な思考を排除すると同時に、いっさいのとらわれのない[[さとり|悟り]]の境地を如実に示す。 | ||
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+ | 実体=自己存在=自性は、ものを考えるひとに、ものを考える場合に、つねについてまわる。しかもなお、それを否定したところに無自性がひろがり、空がひらかれる。<br> | ||
+ | その'''自性を無自性に転換させるのが、[[えんぎ|縁起]](pratityasamutpāda)'''という考えである。もともと縁起という思想は、初期仏教以来、その中心思想とみなされていた。しかし、縁起という術語そのものは古く、重要ではあったけれども、それが無自性につらなり、さらに空に発展するものではなかった。たとえば、'''ある存在にはそのものの自性があり、そこにそれ自身のいわば個性があって、それと関係しあう'''というほどに考えられていた。 | ||
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+ | 「空なるもの」の一般的な規定は、龍樹の『論争の超越』([[えじょうろん|廻諍論]])に見られるように、「'''すべてのもの(法)は空なるものである。なぜならば自性がないからである'''」といわれる。自性を欠いているゆえに空なのであって、空であるゆえに自性を欠いているのではない。<br> | ||
+ | 「自性を欠いている」(niḥsvabhāva)は、しばしば「無自性である」と訳されてきた。この場合、「'''無自性'''」という語は、「'''自性(svabhāva)を欠いたもの'''」を意味するのであって、「無という自性」のことでもなければ「無自性性」(自性を欠いていること)の意味でもない。 | ||
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2025年2月14日 (金) 16:47時点における最新版
無自性
niḥsvabhāva निःस्वभाव (skt.)
それ自身で孤立的に存在する本体もしくは独立している実体を「自性」といい、それを否定して「無自性」が説かれる。
自性を立てて「法」(dharma)の体系を確立した説一切有部に対し、龍樹は主著『中論』において、相依(そうえ)・相待(そうたい)の縁起説を新たに展開し、その理論により自性を根底から覆して無自性を徹底させ、ここに自由で広大な「空」のありかたが浸透する。
「無自性 = 空」は、実体的な思考を排除すると同時に、いっさいのとらわれのない悟りの境地を如実に示す。
実体=自己存在=自性は、ものを考えるひとに、ものを考える場合に、つねについてまわる。しかもなお、それを否定したところに無自性がひろがり、空がひらかれる。
その自性を無自性に転換させるのが、縁起(pratityasamutpāda)という考えである。もともと縁起という思想は、初期仏教以来、その中心思想とみなされていた。しかし、縁起という術語そのものは古く、重要ではあったけれども、それが無自性につらなり、さらに空に発展するものではなかった。たとえば、ある存在にはそのものの自性があり、そこにそれ自身のいわば個性があって、それと関係しあうというほどに考えられていた。
「空なるもの」の一般的な規定は、龍樹の『論争の超越』(廻諍論)に見られるように、「すべてのもの(法)は空なるものである。なぜならば自性がないからである」といわれる。自性を欠いているゆえに空なのであって、空であるゆえに自性を欠いているのではない。
「自性を欠いている」(niḥsvabhāva)は、しばしば「無自性である」と訳されてきた。この場合、「無自性」という語は、「自性(svabhāva)を欠いたもの」を意味するのであって、「無という自性」のことでもなければ「無自性性」(自性を欠いていること)の意味でもない。