「ぼんのう」の版間の差分
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2007年12月2日 (日) 08:33時点における版
煩悩
kleza、क्लेश (sanskrit)
仏教の考え方の一つで、身心を乱し悩ませ、正しい判断をさまたげる心のはたらきを言う。
貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)のいわゆる「三毒」が煩悩の根源であり、とくにその中の「癡」、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、十二因縁の無明(むみよう)が、もっとも根本的なものである。煩悩は、自己中心の考え、それにもとづく事物への執着から生ずる。この意味で、十二因縁中の「愛」は、ときに煩悩のうちでも根本的なものとされる。
説一切有部(せついっさいうぶ)は、煩悩を知的な迷い(見惑)と情意的な迷い(思惑または修惑)とに分け、また貪・瞋・癡・慢・疑・見の6種を根本煩悩とした。さらに、付随する煩悩(随煩悩)を19種数える。
大乗仏教の瑜伽行派(ゆがぎょうは)は、この根本煩悩から派生するものとして、20種の随煩悩を立てた。
如来蔵思想では、煩悩とは本来清浄な人間の心に偶発的に付着したものであると説く(客塵煩悩(きゃくじんぼんのう))。この煩悩を智慧によって断滅し、衆生(しゅじょう)が本来もっている仏性(ぶっしょう)を明らかにすること、すなわち煩悩の束縛を脱して真実の認識を得ることが、大乗仏教の求める悟りにほかならない。
菩薩の四弘誓願(しぐぜいがん)に「煩悩無量誓願断」が立てられているのは、煩悩を断ずることが大乗仏教の基本思想であることを示す。
人間はしょせん煩悩から逃れられぬというところに観念し、煩悩をあるがままの姿として捉え、そこにさとりを見出だそうとする煩悩即菩提の考えが、しだいに大乗仏教の中で大きな思想的位置を占めるようになった。