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「えん」の版間の差分

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

 
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==縁==
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=縁=
(skt.) pratyaya प्रत्यय
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pratyaya प्रत्यय(skt.)
  
広義には、結果を引き起こした原因やその要件をいう。<br>
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 '''縁'''は、仏教の根本を構成している。仏教の中では「[[えんぎ|縁起]]」とか「[[いんねん|因縁]]」が説かれるので、一般的な'''因果律'''のように理解されているが、仏教は因果論よりも、縁論を根本としていることに注意すべきである。<br>
結果を引き起こすための直接的・内的原因を[[いん|]](hetu)というのに対し、これを外から補助する間接的原因を「縁」という。
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 しかし、因を説かないのではなく、「因即縁」として、因も縁の中で解釈する。これは、仏教の根本が[[しゃくそん|釈尊]]の[[さとり]]にあり、そのさとりから現実を観察(かんざつ)されるからである。<br>
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 たとえば、[[したい|四諦]]の内の'''苦諦'''は、日常的な'''苦'''ではなく、さとりの世界から見極められた'''苦'''である。そのために、真理と言う意味の「諦」として「苦諦」と言うのである。集・滅・道についても同じである。
  
* 広義の場合、縁はさらに4種に分類される([[しえん|四縁]])。<br>
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 このような立場で現実を観察するとき、人間はあらゆる関係性のうえに「生」を保っていると言える。その関係が一つでも欠けることがあれば「生」を保つことができないから、現実の生存は「縁生」である。そこで「[[しゅじょう|衆生]]」とは「衆縁所生」であるというのである。<br>
* 慮知(りょち)するという意味で、主観と客観との関係、すなわち心識が外的な対象を認識する作用を「縁」といい、この場合、「縁ずる」と読むことが多い。<br>
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 このように、「縁」とは仏教の根本的立場と、ものの見方を示していると言える。
* 「所縁」とは縁ぜられたもの、すなわち認識の対象をいう。
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中国古典と共通の用法として漢訳仏典には、「由来する」「手段」「えにし」などが用いられる。
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 また、結果が生じるための、直接的内的原因を「[[いん|因]]」と言うのに対して、外的に補助する間接的原因を「縁」という場合もある。
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 この「縁」について、古来、(1)順益資生(じゅんやくししょう)の義、(2)縁慮(えんりょ)の義、(3)縁由(えんゆ)の義などして説明している。
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===順益資生の義===
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 他のものに力を与えて、そのものの生存を資(たす)けることをいう。つまり「助縁」の意味であり、原因という立場からすれば、それは間接的原因であり、事物生起の条件のなかの間接的なものをいう。<br>
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 「[[しえん|四縁]]」の中の「増上縁」にあたる。
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===縁慮の義===
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 慮知(りょち)するという意味。心心所がそれぞれの対象によって、その対象を認知することをいう。認識の対象を縁として認識を生ずる、ということである。この場合、「縁ずる」と読むことが多く、その認識の対象は「所縁」と呼ばれる。<br>
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 「四縁」の「所縁縁」にあたる。
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===縁由の義===
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 これは、「有縁(うえん)」とか「宿縁(しゅくえん)」と言われるように、「えにし」という意味である。本来は中国思想のものを流用したものである。
  
 
:理を縁として菩提心を発するも、また因果を信じて、勤めて道を修行すべきや  『往生要集(大文第4)』
 
:理を縁として菩提心を発するも、また因果を信じて、勤めて道を修行すべきや  『往生要集(大文第4)』

2012年1月22日 (日) 02:28時点における版

pratyaya प्रत्यय(skt.)

 は、仏教の根本を構成している。仏教の中では「縁起」とか「因縁」が説かれるので、一般的な因果律のように理解されているが、仏教は因果論よりも、縁論を根本としていることに注意すべきである。
 しかし、因を説かないのではなく、「因即縁」として、因も縁の中で解釈する。これは、仏教の根本が釈尊さとりにあり、そのさとりから現実を観察(かんざつ)されるからである。
 たとえば、四諦の内の苦諦は、日常的なではなく、さとりの世界から見極められたである。そのために、真理と言う意味の「諦」として「苦諦」と言うのである。集・滅・道についても同じである。

 このような立場で現実を観察するとき、人間はあらゆる関係性のうえに「生」を保っていると言える。その関係が一つでも欠けることがあれば「生」を保つことができないから、現実の生存は「縁生」である。そこで「衆生」とは「衆縁所生」であるというのである。
 このように、「縁」とは仏教の根本的立場と、ものの見方を示していると言える。

 また、結果が生じるための、直接的内的原因を「」と言うのに対して、外的に補助する間接的原因を「縁」という場合もある。

 この「縁」について、古来、(1)順益資生(じゅんやくししょう)の義、(2)縁慮(えんりょ)の義、(3)縁由(えんゆ)の義などして説明している。

順益資生の義

 他のものに力を与えて、そのものの生存を資(たす)けることをいう。つまり「助縁」の意味であり、原因という立場からすれば、それは間接的原因であり、事物生起の条件のなかの間接的なものをいう。
 「四縁」の中の「増上縁」にあたる。

縁慮の義

 慮知(りょち)するという意味。心心所がそれぞれの対象によって、その対象を認知することをいう。認識の対象を縁として認識を生ずる、ということである。この場合、「縁ずる」と読むことが多く、その認識の対象は「所縁」と呼ばれる。
 「四縁」の「所縁縁」にあたる。

縁由の義

 これは、「有縁(うえん)」とか「宿縁(しゅくえん)」と言われるように、「えにし」という意味である。本来は中国思想のものを流用したものである。

理を縁として菩提心を発するも、また因果を信じて、勤めて道を修行すべきや  『往生要集(大文第4)』