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− | + | 354年、21歳のとき太行恒山で[[どうあん|道安]]と出会い、弟子となる。<br> | |
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− | + | 20歳の時、大統の[[ほうじょう|法上]]に[[ぐそくかい|具足戒]]を受け、その後、[[どんいん|曇隠]]に『[[しぶんりつ|四分律]]』を学び、さらに法上に[[じろん|地論]]教学を学んで地論宗南道派の学問を大成した。<br> | |
+ | 北周の武帝が廃仏した際に、これを諫めたが、むなしく汲郡の西山に隠棲した。<br> | ||
+ | 晩年は浄影寺に住み、多くの経論の注釈書を著した。 | ||
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− | *[[だいじょうぎしょう|大乗義章]] | + | * [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1851_] [[だいじょうぎしょう|大乗義章]] 28巻 |
− | *維摩義記 | + | * [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1776_ 維摩義記] 8巻 |
− | *大般涅槃経義記 | + | * [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1764_ 大般涅槃経義記] 10巻 |
− | *[[かんむりょうじゅきょうぎしょ|観無量寿経義疏]] | + | * [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1749_] [[かんむりょうじゅきょうぎしょ|観無量寿経義疏]] 2巻 |
− | *十地経論義記 | + | * 十地経論義記 7巻(うち4巻現存) |
2017年4月13日 (木) 16:41時点における最新版
慧苑
(673? - 743?)
唐代、法蔵門下で、もっともすぐれた華厳学者。
著書
- 続華厳経略疏刊定記 15巻
慧遠
えおん、Huî-yuăn
中国に2人の有名な慧遠が居るので注意が必要
廬山の慧遠
334-416年。中国、東晋代の僧。「廬山(ろざん)の慧遠」と呼ばれる。俗姓は賈氏。雁門楼煩(現在の山西省寧武)に生まれ、若くして儒家・道家の学問に通じた。
354年、21歳のとき太行恒山で道安と出会い、弟子となる。
365年、道安に伴われて四百余人の同門の人びとと襄陽に移る。
384年(or 386年)、道安と別れて、以後没するまで廬山の東林寺に住した。
391年、僧伽提婆(そうぎゃだいば)を迎えて『阿毘曇心論』4巻などの訳出を要請。
401年以降、長安に来た鳩摩羅什と親交を結ぶ。
402年、123人の同志とともに念仏の結社(白蓮社)を結成する。
404年、桓玄に反論して『沙門不敬王者論 (しゃもんふきょうおうじゃろん)』を著す。
410年、鳩摩羅什のグループから追われた仏駄跋陀羅を迎え入れる。
彼を中心とするグループは、江南の仏教の中心として戒律を守り、中国仏教教団の基礎となった。また中国浄土教の祖とも見なされている。
著書
- 沙門袒服論
- 明報応論
- 念仏三昧詩集序
- 大乗大義章 3巻、(鳩摩羅什との手紙による問答)
浄影寺の慧遠
523-592年。中国、北周-隋代の僧。「浄影寺(じょうようじ)慧遠」と呼ばれる。俗姓は李氏。敦煌の人。
20歳の時、大統の法上に具足戒を受け、その後、曇隠に『四分律』を学び、さらに法上に地論教学を学んで地論宗南道派の学問を大成した。
北周の武帝が廃仏した際に、これを諫めたが、むなしく汲郡の西山に隠棲した。
晩年は浄影寺に住み、多くの経論の注釈書を著した。