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− | + | サンスクリット語「ヴィムクティ」も「ヴィモークシャ」も、ともに「ムッチュ」(muc, मुच्)を語根とする。これは「開放する」「放棄する」などの意味である。「ヴィムクティ」は毘木底と音写され、「ヴィモークシャ」は毘木叉と音写される。両者とも、すべての束縛から離れることである。<br> | |
− | + | 繋縛を離れて自在を得るという意味である。誤った執着心から起こる業の繋縛を開放し、迷いの世界の苦悩を脱するから「解脱」という。その意味で、古来「自在」と解釈されてきた。「解脱というは、作用自在を謂う」( ''華厳大疏'' ) それは、外からの束縛の解放や自由より、内からの自らを解放することや自由を獲得することを重要視する。 | |
− | + | この「解脱」という言葉は、けっして[[ぶっきょう|仏教]]のみの術語ではなく、[[ねはん|涅槃]]とともに、古くからインドで用いられ、人間の究極の目標や理想を示すことばとして用いられた。<br> | |
− | + | 自分の心や自分の身体は、自分のものでありながら、自分自身で制御することは難かしい。これこそ、もっとも根本的な束縛といえるであろう。このような根本的な束縛を解き放した状態、それを「解脱」という。 | |
− | + | 仏教では、この解脱に'''慧解脱'''(えげだつ)'''倶解脱'''(くげだつ)を説く。慧解脱とは「智慧」の障りを離れていることで、正しい智慧をえていること。倶解脱とは慧の障りをはなれるだけでなく、「定」の障りをも脱していることである。<br> | |
− | + | また、'''心解脱'''と'''慧解脱'''を説く。心解脱とは心に貪著を離れること、慧解脱とは無明をはなれていることをいうのである。<br> | |
− | + | あるいは'''心解脱'''、'''身解脱'''といって、精神的にはすでに解脱していても、肉体的には、どうにもならない束縛をもっている場合、たとえば釈尊の成道後の伝道生活のごときを心解脱といい、完全に肉体的な束縛を離れているのを身解脱といったりする。 | |
− | + | インド一般の教え(仏教以外)では、[[りんね|輪廻]]からの離脱であるから、むしろ虚無的世界の意味が強く、仏教の場合も、[[ぶはぶっきょう|部派払教]]では無余涅槃を究極の目的とするから、身心都滅(しんしんとめつ)にしてはじめて解脱であるから、虚無的な意味が強い。しかし、後の大乗では解脱といっても、'''無住処涅槃'''の理想からいえば、生死にも涅槃にもとらわれないまったくの無執着、逆にいえば任運自在の境地をいうとみてよいから、積極的な意味あいである。 | |
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2017年10月16日 (月) 13:25時点における版
解脱
(げだつ、vimukti, विमुक्ति、vimokSa, विमोक्ष)
サンスクリット語「ヴィムクティ」も「ヴィモークシャ」も、ともに「ムッチュ」(muc, मुच्)を語根とする。これは「開放する」「放棄する」などの意味である。「ヴィムクティ」は毘木底と音写され、「ヴィモークシャ」は毘木叉と音写される。両者とも、すべての束縛から離れることである。
繋縛を離れて自在を得るという意味である。誤った執着心から起こる業の繋縛を開放し、迷いの世界の苦悩を脱するから「解脱」という。その意味で、古来「自在」と解釈されてきた。「解脱というは、作用自在を謂う」( 華厳大疏 ) それは、外からの束縛の解放や自由より、内からの自らを解放することや自由を獲得することを重要視する。
この「解脱」という言葉は、けっして仏教のみの術語ではなく、涅槃とともに、古くからインドで用いられ、人間の究極の目標や理想を示すことばとして用いられた。
自分の心や自分の身体は、自分のものでありながら、自分自身で制御することは難かしい。これこそ、もっとも根本的な束縛といえるであろう。このような根本的な束縛を解き放した状態、それを「解脱」という。
仏教では、この解脱に慧解脱(えげだつ)倶解脱(くげだつ)を説く。慧解脱とは「智慧」の障りを離れていることで、正しい智慧をえていること。倶解脱とは慧の障りをはなれるだけでなく、「定」の障りをも脱していることである。
また、心解脱と慧解脱を説く。心解脱とは心に貪著を離れること、慧解脱とは無明をはなれていることをいうのである。
あるいは心解脱、身解脱といって、精神的にはすでに解脱していても、肉体的には、どうにもならない束縛をもっている場合、たとえば釈尊の成道後の伝道生活のごときを心解脱といい、完全に肉体的な束縛を離れているのを身解脱といったりする。
インド一般の教え(仏教以外)では、輪廻からの離脱であるから、むしろ虚無的世界の意味が強く、仏教の場合も、部派払教では無余涅槃を究極の目的とするから、身心都滅(しんしんとめつ)にしてはじめて解脱であるから、虚無的な意味が強い。しかし、後の大乗では解脱といっても、無住処涅槃の理想からいえば、生死にも涅槃にもとらわれないまったくの無執着、逆にいえば任運自在の境地をいうとみてよいから、積極的な意味あいである。
解脱上人
(げだつしょうにん、久寿2-建保元 (1155年-1213年))
京都南部・笠置寺の貞慶(じょうけい)のことを、解脱上人という。
法相宗の学僧で、興福寺の覚慧に師事して、法相と律を究め、法相教学の復興に努め法相再興の一人。法然の専修念仏に対して、「興福寺奏状」を著して念仏停止を訴えた。
主な著作に、『唯識同学鈔 』『愚迷発心集 』などがある。