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仏道修行の初歩を意味し、しっかりとした志を立てて[[ちえ|智慧]]を磨き、[[さとり]]に達する。「知らんが為に、われ信ず」の立場であり、 | 仏道修行の初歩を意味し、しっかりとした志を立てて[[ちえ|智慧]]を磨き、[[さとり]]に達する。「知らんが為に、われ信ず」の立場であり、 | ||
:仏法は、信をもって入ることができ、智をもって渡ることができる(仏法の大海は信を能入となし、智を能度となす) 〔[[だいちどろん|大智度論]]〕 | :仏法は、信をもって入ることができ、智をもって渡ることができる(仏法の大海は信を能入となし、智を能度となす) 〔[[だいちどろん|大智度論]]〕 | ||
− | と説かれる。 | + | と説かれる。<br> |
+ | ごく初期の『スッタニパータ』には、信仰を解き放てということを説いている。 | ||
+ | :1146. "Yatba ahū Vakkali muttasaddbo Bbadrāvudbo Ālavi-Gotamo ca; | ||
+ | : evam eva tvam pi pamuñcassu saddbaṃ: gamissasi tvaṃ Pińgiya maccudheyyapāraṃ" | ||
+ | :1146(師ブッダが現われていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を解き放ったように、そのように汝もまた信仰を解き放て。そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。ピンギヤよ。」 | ||
+ | これは、他の人の真理を説いたものを信じてはいけない、ということではない。それについては『アングッタラニカーヤ』に説かれている。 | ||
+ | : カーラーマたちよ、あなたがたは、風説によるなかれ。伝承によるなかれ。伝聞によるなかれ。聖典記載によるなかれ。推論によるなかれ。公理によるなかれ。類比によるなかれ。見解からの推論に対する受容によるなかれ。有能な外見によるなかれ。自分の師である沙門という理由によるなかれ。 | ||
+ | つまり、'''他によるのではなく、自らで判断する'''ことを説いている。「'''自帰依'''」ということを第一に説いているのである。 | ||
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+ | 初期経典では、一般に「信仰」「信心」と訳される「saddhā」という用語があるが、いわゆる「信心」ではなく、確信から生まれる「'''信頼'''」と呼ぶべきものである。 | ||
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+ | : 「信仰のある人が、〈これは私の信仰です〉と述べる限りにおいて、彼は真実を保持している。しかし、そこから一歩進んで〈これのみが真実であり、他はすべて偽りである〉と断言することはできない。 | ||
+ | : 言い換えれば、人は自分の好きなことを信じる権利があり、〈私はこう信じます〉と述べて差しさわりはない。その限りにおいて、彼は真実を尊重している。しかし自らの信心あるいは信仰から、自分が信じていることのみが真実で、他のすべては偽りであると主張することは許されない。 | ||
+ | : ある一つの見解に固執し、他の見解を見下すこと、賢者はそれをとらわれと呼ぶ」 | ||
==プラサーダ== | ==プラサーダ== | ||
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心が清く澄みきること。 | 心が清く澄みきること。 | ||
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==アディムクティ== | ==アディムクティ== | ||
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不動・決心・確信などの意味で、仏道にしっかり心を結びつけ動揺しないこと。 | 不動・決心・確信などの意味で、仏道にしっかり心を結びつけ動揺しないこと。 | ||
==バクティ== | ==バクティ== | ||
− | + | <big>bhakti</big>。「信愛」と訳す。<br> | |
神に対する熱烈な絶対帰依の感情を意味する。『[[バガヴァット・ギーター]]』などに説かれる。しかし、この語は仏教ではほとんど用いられない。<br> | 神に対する熱烈な絶対帰依の感情を意味する。『[[バガヴァット・ギーター]]』などに説かれる。しかし、この語は仏教ではほとんど用いられない。<br> | ||
− | + | また、「信光」や「仰信」の語も用いられ、信は根本で、最上の富であり、道の本であり、功徳の母であると強調される。逆に、仏教では、非合理な神の世界や絶対界に対する、'''絶対帰依としての信仰観は存しない'''と言える。 |
2024年8月18日 (日) 11:14時点における最新版
信仰
仏教では、「信仰」にあたる言葉に、シュラッダー、プラサーダ、アディムクティ、バクティなどがある。
シュラッダー
śraddhā (S),saddhā (P)。「信」「信心」「正信」「浄信」「敬信」などと訳される。
仏道修行の初歩を意味し、しっかりとした志を立てて智慧を磨き、さとりに達する。「知らんが為に、われ信ず」の立場であり、
- 仏法は、信をもって入ることができ、智をもって渡ることができる(仏法の大海は信を能入となし、智を能度となす) 〔大智度論〕
と説かれる。
ごく初期の『スッタニパータ』には、信仰を解き放てということを説いている。
- 1146. "Yatba ahū Vakkali muttasaddbo Bbadrāvudbo Ālavi-Gotamo ca;
- evam eva tvam pi pamuñcassu saddbaṃ: gamissasi tvaṃ Pińgiya maccudheyyapāraṃ"
- 1146(師ブッダが現われていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を解き放ったように、そのように汝もまた信仰を解き放て。そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。ピンギヤよ。」
これは、他の人の真理を説いたものを信じてはいけない、ということではない。それについては『アングッタラニカーヤ』に説かれている。
- カーラーマたちよ、あなたがたは、風説によるなかれ。伝承によるなかれ。伝聞によるなかれ。聖典記載によるなかれ。推論によるなかれ。公理によるなかれ。類比によるなかれ。見解からの推論に対する受容によるなかれ。有能な外見によるなかれ。自分の師である沙門という理由によるなかれ。
つまり、他によるのではなく、自らで判断することを説いている。「自帰依」ということを第一に説いているのである。
初期経典では、一般に「信仰」「信心」と訳される「saddhā」という用語があるが、いわゆる「信心」ではなく、確信から生まれる「信頼」と呼ぶべきものである。
- 「信仰のある人が、〈これは私の信仰です〉と述べる限りにおいて、彼は真実を保持している。しかし、そこから一歩進んで〈これのみが真実であり、他はすべて偽りである〉と断言することはできない。
- 言い換えれば、人は自分の好きなことを信じる権利があり、〈私はこう信じます〉と述べて差しさわりはない。その限りにおいて、彼は真実を尊重している。しかし自らの信心あるいは信仰から、自分が信じていることのみが真実で、他のすべては偽りであると主張することは許されない。
- ある一つの見解に固執し、他の見解を見下すこと、賢者はそれをとらわれと呼ぶ」
プラサーダ
prasāda。「澄浄」「浄信」と訳す。
心が清く澄みきること。
- 信とは、心をして澄浄ならしむるなり 〔倶舎論巻4 T29-19b〕
アディムクティ
adhimukti。「信解」「勝解」と訳す。
不動・決心・確信などの意味で、仏道にしっかり心を結びつけ動揺しないこと。
バクティ
bhakti。「信愛」と訳す。
神に対する熱烈な絶対帰依の感情を意味する。『バガヴァット・ギーター』などに説かれる。しかし、この語は仏教ではほとんど用いられない。
また、「信光」や「仰信」の語も用いられ、信は根本で、最上の富であり、道の本であり、功徳の母であると強調される。逆に、仏教では、非合理な神の世界や絶対界に対する、絶対帰依としての信仰観は存しないと言える。