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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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==シュラッダー==
 
==シュラッダー==
 zraddhaa。「信」「[[しんじん|信心]]」「正信」「[[じょうしん|浄信]]」「[[きょうしん|敬信]]」などと訳される。<br>
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 <big>śraddhā</big> (S),<big>saddhā</big> (P)。「信」「[[しんじん|信心]]」「正信」「[[じょうしん|浄信]]」「[[きょうしん|敬信]]」などと訳される。<br>
 
 仏道修行の初歩を意味し、しっかりとした志を立てて[[ちえ|智慧]]を磨き、[[さとり]]に達する。「知らんが為に、われ信ず」の立場であり、
 
 仏道修行の初歩を意味し、しっかりとした志を立てて[[ちえ|智慧]]を磨き、[[さとり]]に達する。「知らんが為に、われ信ず」の立場であり、
 
:仏法は、信をもって入ることができ、智をもって渡ることができる(仏法の大海は信を能入となし、智を能度となす)    〔[[だいちどろん|大智度論]]〕
 
:仏法は、信をもって入ることができ、智をもって渡ることができる(仏法の大海は信を能入となし、智を能度となす)    〔[[だいちどろん|大智度論]]〕
と説かれる。
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と説かれる。<br>
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 ごく初期の『スッタニパータ』には、信仰を解き放てということを説いている。
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:1146. "Yatba ahū Vakkali muttasaddbo Bbadrāvudbo Ālavi-Gotamo ca;
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:   evam eva tvam pi pamuñcassu saddbaṃ: gamissasi tvaṃ Pińgiya maccudheyyapāraṃ"
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:1146(師ブッダが現われていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を解き放ったように、そのように汝もまた信仰を解き放て。そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。ピンギヤよ。」
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 これは、他の人の真理を説いたものを信じてはいけない、ということではない。それについては『アングッタラニカーヤ』に説かれている。
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: カーラーマたちよ、あなたがたは、風説によるなかれ。伝承によるなかれ。伝聞によるなかれ。聖典記載によるなかれ。推論によるなかれ。公理によるなかれ。類比によるなかれ。見解からの推論に対する受容によるなかれ。有能な外見によるなかれ。自分の師である沙門という理由によるなかれ。
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 つまり、'''他によるのではなく、自らで判断する'''ことを説いている。「'''自帰依'''」ということを第一に説いているのである。
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 初期経典では、一般に「信仰」「信心」と訳される「saddhā」という用語があるが、いわゆる「信心」ではなく、確信から生まれる「'''信頼'''」と呼ぶべきものである。
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: 「信仰のある人が、〈これは私の信仰です〉と述べる限りにおいて、彼は真実を保持している。しかし、そこから一歩進んで〈これのみが真実であり、他はすべて偽りである〉と断言することはできない。
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: 言い換えれば、人は自分の好きなことを信じる権利があり、〈私はこう信じます〉と述べて差しさわりはない。その限りにおいて、彼は真実を尊重している。しかし自らの信心あるいは信仰から、自分が信じていることのみが真実で、他のすべては偽りであると主張することは許されない。
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: ある一つの見解に固執し、他の見解を見下すこと、賢者はそれをとらわれと呼ぶ」
  
 
==プラサーダ==
 
==プラサーダ==
 prasaada。「澄浄」「浄信」と訳す。<br>
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 心が清く澄みきること。
 
 心が清く澄みきること。
  
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==アディムクティ==
 
==アディムクティ==
 adhimukti。「[[しんげ|信解]]」「勝解」と訳す。<br>
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 <big>adhimukti</big>。「[[しんげ|信解]]」「勝解」と訳す。<br>
 
 不動・決心・確信などの意味で、仏道にしっかり心を結びつけ動揺しないこと。
 
 不動・決心・確信などの意味で、仏道にしっかり心を結びつけ動揺しないこと。
  
 
==バクティ==
 
==バクティ==
 bhakti。「信愛」と訳す。<br>
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 <big>bhakti</big>。「信愛」と訳す。<br>
 
 神に対する熱烈な絶対帰依の感情を意味する。『[[バガヴァット・ギーター]]』などに説かれる。しかし、この語は仏教ではほとんど用いられない。<br>
 
 神に対する熱烈な絶対帰依の感情を意味する。『[[バガヴァット・ギーター]]』などに説かれる。しかし、この語は仏教ではほとんど用いられない。<br>
 また、「信光」や「仰信」の語も用いられ、信は根本で、最上の富であり、道の本であり、功徳の母であると強調される。逆に、仏教では、非合理な神の世界や絶対界に対する、絶対帰依としての信仰観は存しないと言える。
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 また、「信光」や「仰信」の語も用いられ、信は根本で、最上の富であり、道の本であり、功徳の母であると強調される。逆に、仏教では、非合理な神の世界や絶対界に対する、'''絶対帰依としての信仰観は存しない'''と言える。

2024年8月18日 (日) 11:14時点における最新版

信仰

 仏教では、「信仰」にあたる言葉に、シュラッダー、プラサーダ、アディムクティ、バクティなどがある。

シュラッダー

 śraddhā (S),saddhā (P)。「信」「信心」「正信」「浄信」「敬信」などと訳される。
 仏道修行の初歩を意味し、しっかりとした志を立てて智慧を磨き、さとりに達する。「知らんが為に、われ信ず」の立場であり、

仏法は、信をもって入ることができ、智をもって渡ることができる(仏法の大海は信を能入となし、智を能度となす)    〔大智度論

と説かれる。
 ごく初期の『スッタニパータ』には、信仰を解き放てということを説いている。

1146. "Yatba ahū Vakkali muttasaddbo Bbadrāvudbo Ālavi-Gotamo ca;
   evam eva tvam pi pamuñcassu saddbaṃ: gamissasi tvaṃ Pińgiya maccudheyyapāraṃ"
1146(師ブッダが現われていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を解き放ったように、そのように汝もまた信仰を解き放て。そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。ピンギヤよ。」

 これは、他の人の真理を説いたものを信じてはいけない、ということではない。それについては『アングッタラニカーヤ』に説かれている。

 カーラーマたちよ、あなたがたは、風説によるなかれ。伝承によるなかれ。伝聞によるなかれ。聖典記載によるなかれ。推論によるなかれ。公理によるなかれ。類比によるなかれ。見解からの推論に対する受容によるなかれ。有能な外見によるなかれ。自分の師である沙門という理由によるなかれ。

 つまり、他によるのではなく、自らで判断することを説いている。「自帰依」ということを第一に説いているのである。

 初期経典では、一般に「信仰」「信心」と訳される「saddhā」という用語があるが、いわゆる「信心」ではなく、確信から生まれる「信頼」と呼ぶべきものである。

 「信仰のある人が、〈これは私の信仰です〉と述べる限りにおいて、彼は真実を保持している。しかし、そこから一歩進んで〈これのみが真実であり、他はすべて偽りである〉と断言することはできない。
 言い換えれば、人は自分の好きなことを信じる権利があり、〈私はこう信じます〉と述べて差しさわりはない。その限りにおいて、彼は真実を尊重している。しかし自らの信心あるいは信仰から、自分が信じていることのみが真実で、他のすべては偽りであると主張することは許されない。
 ある一つの見解に固執し、他の見解を見下すこと、賢者はそれをとらわれと呼ぶ」

プラサーダ

 prasāda。「澄浄」「浄信」と訳す。
 心が清く澄みきること。

信とは、心をして澄浄ならしむるなり    〔倶舎論巻4 T29-19b〕

アディムクティ

 adhimukti。「信解」「勝解」と訳す。
 不動・決心・確信などの意味で、仏道にしっかり心を結びつけ動揺しないこと。

バクティ

 bhakti。「信愛」と訳す。
 神に対する熱烈な絶対帰依の感情を意味する。『バガヴァット・ギーター』などに説かれる。しかし、この語は仏教ではほとんど用いられない。
 また、「信光」や「仰信」の語も用いられ、信は根本で、最上の富であり、道の本であり、功徳の母であると強調される。逆に、仏教では、非合理な神の世界や絶対界に対する、絶対帰依としての信仰観は存しないと言える。