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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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 受戒によって植え付けられた「非を防ぎ悪を止める力」(防非止悪の力)をいう。具体的に表層に表れず認識されえないものであるから[[むひょうしき|無表色]]という。<br>
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 受戒ののち,防非止悪の力として、心を拘束しながら持続的に存続する一種の効力であって、具戒者たりうる資格を与えるものである。そして、この戒体という目にみえない力を、どのようなものとして捉えるかにより、諸説が存する。<br>
 [[せついっさいうぶ|説一切有部]]では四大種(地・水・火・風の四つの元素)によって造られた実色(実際の物質)が、その
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 戒体論としては、[[アビダルマ]]仏教における[[せついっさいうぶ|説一切有部]]の色法説、『[[じょうじつろん|成実論]]』にみられる非色非心説、[[きょうりょうぶ|経量部]]さらにはその発展としての[[ゆいしき|唯識]]派の種子説などが重要である。
ような力を持つ'''戒体'''であると考える。<br>
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 [[ゆいしき|唯識]]では[[いしき|意識]]にともなう思(意志)の働きによって[[あらやしき|阿頼耶識]]のなかに植え付けられたそのような力を持つ[[しゅうじ|種子]]を仮に'''戒体'''と名づける。
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 受戒の際には、師を礼拝するなどの身業と、誓いの言葉を口にする語業とが、必ず付随する。有部では、これら身・語業は、ともに色法であるので、色法より生じた、自己の意識を制約するものたる戒体も、また、同じく色法であるとする。そして、その戒体を、律儀の無表(avijñapti)と称し、無表色(avijñapti-rūpa)という実法とみなすのである。また、戒体には、優婆塞・優婆夷の五戒、沙弥・沙弥尼の十戒、正学女の六法戒、比丘・比丘尼の具足戒、八斎戒の8種の戒体があるが、実体は、五戒、十戒、具足戒、八斎戒の4種であるとする。そして、戒を守る意志をなくし、戒を捨てることを宣言しないかぎり、八斎戒の戒体は一昼夜間、他の戒の戒体は死ぬまで存続するとする。
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 ところで、この無表というものは、本来的には、業果を連鎖する媒介物として登場した説と思われるが、有部では、三世実有説に立脚しているため、そのような意味での無表を必要とせず、防非止悪の力として、自己の意識を制約するものとして、つまり,戒体論を中心として考えていたようである。<br>
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 次に『成実論』にも、戒体という語は出てこない。しかし、戒体の存在は、無作(avijñapti, 無表)の一部分として認めている。ここにおける無作とは、人が善悪業をなした場合、その結果がかたちを変えてその人にそなわって、存続していくものをいうのであって、有部での無表
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よりも広義となる。そして、その無作は、善心における無記・悪心のごとく、逆の心であるときも、また、無心・悶絶・睡眠などのときにも、持続していると考えられるため、心以外の領域に保存されるとし、他方、色法の性に[[ぜんあく|善悪]]がないのに、無作には善悪の性ありと説くため、有部のごとく色法ともせず、心不相応行法に摂するのである。<br>
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 経量部でも、戒体を色法とはせず、思の[[しゅうじ|種子]]というかたちで考える。それは、戒体を、受戒ののち、自己が具戒者であることをたえず憶いおこして、心に植えつけておいた、その薫習力と考え、その心に植えつけられている思の力を、種子とする。つまり、その種子は、思とは別のものではないが、[[げんぎょう|現行]]の思とは異なるものであり、功能の状態としての思である。そして、それが、[[そうぞく|相続]][[てんぺん|転変]]・[[しゃべつ|差別]]する、といわれる。<br>
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 さらに、[[ゆいしき|唯識]]説になると、この種子の蔵される場所として、[[あらやしき|アーラヤ識]]がたてられ、種子説はより完備していく。

2020年5月20日 (水) 21:44時点における最新版

戒体

 受戒ののち,防非止悪の力として、心を拘束しながら持続的に存続する一種の効力であって、具戒者たりうる資格を与えるものである。そして、この戒体という目にみえない力を、どのようなものとして捉えるかにより、諸説が存する。
 戒体論としては、アビダルマ仏教における説一切有部の色法説、『成実論』にみられる非色非心説、経量部さらにはその発展としての唯識派の種子説などが重要である。

 受戒の際には、師を礼拝するなどの身業と、誓いの言葉を口にする語業とが、必ず付随する。有部では、これら身・語業は、ともに色法であるので、色法より生じた、自己の意識を制約するものたる戒体も、また、同じく色法であるとする。そして、その戒体を、律儀の無表(avijñapti)と称し、無表色(avijñapti-rūpa)という実法とみなすのである。また、戒体には、優婆塞・優婆夷の五戒、沙弥・沙弥尼の十戒、正学女の六法戒、比丘・比丘尼の具足戒、八斎戒の8種の戒体があるが、実体は、五戒、十戒、具足戒、八斎戒の4種であるとする。そして、戒を守る意志をなくし、戒を捨てることを宣言しないかぎり、八斎戒の戒体は一昼夜間、他の戒の戒体は死ぬまで存続するとする。

 ところで、この無表というものは、本来的には、業果を連鎖する媒介物として登場した説と思われるが、有部では、三世実有説に立脚しているため、そのような意味での無表を必要とせず、防非止悪の力として、自己の意識を制約するものとして、つまり,戒体論を中心として考えていたようである。
 次に『成実論』にも、戒体という語は出てこない。しかし、戒体の存在は、無作(avijñapti, 無表)の一部分として認めている。ここにおける無作とは、人が善悪業をなした場合、その結果がかたちを変えてその人にそなわって、存続していくものをいうのであって、有部での無表 よりも広義となる。そして、その無作は、善心における無記・悪心のごとく、逆の心であるときも、また、無心・悶絶・睡眠などのときにも、持続していると考えられるため、心以外の領域に保存されるとし、他方、色法の性に善悪がないのに、無作には善悪の性ありと説くため、有部のごとく色法ともせず、心不相応行法に摂するのである。
 経量部でも、戒体を色法とはせず、思の種子というかたちで考える。それは、戒体を、受戒ののち、自己が具戒者であることをたえず憶いおこして、心に植えつけておいた、その薫習力と考え、その心に植えつけられている思の力を、種子とする。つまり、その種子は、思とは別のものではないが、現行の思とは異なるものであり、功能の状態としての思である。そして、それが、相続転変差別する、といわれる。
 さらに、唯識説になると、この種子の蔵される場所として、アーラヤ識がたてられ、種子説はより完備していく。