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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(利他)
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 [[じり|自利]]の反対語。他の人びとを利して、救済すること。[[だいじょう|大乗]]の[[ぼさつ|菩薩]]は自利と利他の行を修す。この二つの行が完成した者が[[ぶつ|仏]]である。<br>
 
 [[じり|自利]]の反対語。他の人びとを利して、救済すること。[[だいじょう|大乗]]の[[ぼさつ|菩薩]]は自利と利他の行を修す。この二つの行が完成した者が[[ぶつ|仏]]である。<br>
 自利は文字通り自己の利益のために行動することで、仏教的には、苦界をのがれて悟りを享受するという利益のために、菩提心を発し、出家の身となって修行することを意味する。また、利他とは、他者の利益と安楽のために行動することで、慈悲の実践を意味する。<br>
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 自利は文字通り自己の利益のために行動することで、仏教的には、[[くがい|苦界]]をのがれて悟りを享受するという[[りやく|利益]]のために、[[ぼだいしん|菩提心]]を発し、出家の身となって修行することを意味する。また、利他とは、他者の利益と安楽のために行動することで、[[じひ|慈悲]]の実践を意味する。<br>
 自利利他は自行化他、自益益他、自利利人ともいわれる。また、自利利他覚行窮満ともいわれ、大乗仏教で菩薩が成仏するための条件とされている。自分の悟りだけを求めて他を顧みない小乗仏教の比丘は自利のみを求めると批判した大乗の菩薩たちは「自未度先度他」といわれるように、自らの悟りを後回しにしてまでも他者の救済に専心する利他行を重視するとともに、阿羅漢(供養を受けるもの)にしか成りえないとする部派仏教の教義を小乗とさげすみ、慈悲心を完成して、自他ともに仏陀と成る道を明らかにしたものが、自利利他円満の教説なのである。<br>
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 自利利他は[[じぎょうけた|自行化他]]、[[じやくやくた|自益益他]]、[[じりりにん|自利利人]]ともいわれる。また、[[じりりたかくぎょうぐうまん|自利利他覚行窮満]]ともいわれ、大乗仏教で菩薩が成仏するための条件とされている。自分の悟りだけを求めて他を顧みない小乗仏教の比丘は自利のみを求めると批判した大乗の菩薩たちは「[[じみどぜんどた|自未度先度他]]」といわれるように、自らの悟りを後回しにしてまでも他者の救済に専心する利他行を重視するとともに、[[あらかん|阿羅漢]](供養を受けるもの)にしか成りえないとする[[ぶはぶっきょう|部派仏教]]の教義を小乗とさげすみ、慈悲心を完成して、自他ともに仏陀と成る道を明らかにしたものが、自利利他円満の教説なのである。<br>
 利他の精神は、釈尊の最初説法を起点とする衆生救済に始まるが、大乗仏教徒は、この精神を、釈尊の前生における行為にまでさかのぼって理解し、前生の身すなわち菩薩の身であったときに多くの利他行を積んだがゆえに釈尊は今生で成仏できたのであると受けとめた。そして、このような思想からなる釈尊の前生話(ジャータカ)をもとに、自らも釈尊にならって、菩薩として行動すれば、釈尊のように慈悲の完成者と成れるとしたのである。
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 利他の精神は、釈尊の最初説法を起点とする衆生救済に始まるが、大乗仏教徒は、この精神を、釈尊の前生における行為にまでさかのぼって理解し、前生の身すなわち菩薩の身であったときに多くの利他行を積んだがゆえに釈尊は今生で成仏できたのであると受けとめた。そして、このような思想からなる釈尊の前生話([[ジャータカ]])をもとに、自らも釈尊にならって、菩薩として行動すれば、釈尊のように慈悲の完成者と成れるとしたのである。
  
 
 
 
 
  
 
:願作仏の心はこれ 度衆生のこころなり 度衆生の心はこれ 利他真実の信心なり  ''[[こうそうわさん|高僧和讃]]
 
:願作仏の心はこれ 度衆生のこころなり 度衆生の心はこれ 利他真実の信心なり  ''[[こうそうわさん|高僧和讃]]

2021年4月16日 (金) 21:22時点における版

利他

para-hita परहित, para-anugraha, para-artha, sattva-artha-prayukta(S)

 自利の反対語。他の人びとを利して、救済すること。大乗菩薩は自利と利他の行を修す。この二つの行が完成した者がである。
 自利は文字通り自己の利益のために行動することで、仏教的には、苦界をのがれて悟りを享受するという利益のために、菩提心を発し、出家の身となって修行することを意味する。また、利他とは、他者の利益と安楽のために行動することで、慈悲の実践を意味する。
 自利利他は自行化他自益益他自利利人ともいわれる。また、自利利他覚行窮満ともいわれ、大乗仏教で菩薩が成仏するための条件とされている。自分の悟りだけを求めて他を顧みない小乗仏教の比丘は自利のみを求めると批判した大乗の菩薩たちは「自未度先度他」といわれるように、自らの悟りを後回しにしてまでも他者の救済に専心する利他行を重視するとともに、阿羅漢(供養を受けるもの)にしか成りえないとする部派仏教の教義を小乗とさげすみ、慈悲心を完成して、自他ともに仏陀と成る道を明らかにしたものが、自利利他円満の教説なのである。
 利他の精神は、釈尊の最初説法を起点とする衆生救済に始まるが、大乗仏教徒は、この精神を、釈尊の前生における行為にまでさかのぼって理解し、前生の身すなわち菩薩の身であったときに多くの利他行を積んだがゆえに釈尊は今生で成仏できたのであると受けとめた。そして、このような思想からなる釈尊の前生話(ジャータカ)をもとに、自らも釈尊にならって、菩薩として行動すれば、釈尊のように慈悲の完成者と成れるとしたのである。

 

願作仏の心はこれ 度衆生のこころなり 度衆生の心はこれ 利他真実の信心なり  高僧和讃