「ゆいまきょう」の版間の差分
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+ | 『維摩経』は、『般若経』に続き『法華経』よりやや先行して著わされた代表的な初期大乗仏典の一つである。『維摩経』は『般若経』と同様、「空」の思想を説くものだが、『般若経』に呪術的なことが多く説かれているのに対して、『維摩経』には呪術性は全くない。「空」なるがゆえに、現実生活において人々のために積極的に行動する菩薩の在り方が強調されているという点が際立っている。<br> | ||
+ | 在家主義、男女平等といった思想が、極めて戯曲的な手法で展開されていて、その小気味よい痛快なドラマ的展開は中国の文人たちに愛好され、敦煌や雲崗の石窟の壁画のテーマとしても取り上げられた。わが国においても 538年に仏教が伝来すると、聖徳太子(574〜622年)は、『維摩経義疏』(伝613年)と題する注釈書を著わした。それは、『法華経義疏』(伝615年)、『勝鬘経義疏』(伝611年)と合わせて『三経義疏』と呼ばれている。わが国でも、『維摩経』は仏教伝来の当初から重視されてきた。 | ||
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+ | この経典の主人公はヴィマラキールティ(vimalakīrti)という名前であり、支謙(2〜3世紀)と鳩摩羅什(344〜413)は「維摩詰」と音写した。vimalakīrtiは、vimala と kīrti の複合語である。その vimalaは、vigata-mala の省略形で「汚れ(mala)を離れた(vu-gata)」を意味し、kīrti(名声)とともに所有複合語を形成して「汚れのない名声を持つもの」という意味になる。これを、吉蔵(549〜623)はその注釈書で「浄名」と称し、玄奘(602〜664)は「無垢称」と漢訳した。<br> | ||
+ | 『維摩経』の舞台は、ガンジス河中流域の北方、ヴァッジ国の首都ヴァイシャーリー(毘耶離)という都城で、マガダ国の首都パータリプトラ(現在のパトナ)から北へ50キロメートルほど離れたところに位置している。<br> | ||
+ | 鳩摩羅什は、その注釈で「彼の国に王無し。唯、五百の居士、共に国政を治む。今、主と言うは衆の推す所なり」(僧肇撰『注維摩詰経』)と記している。原始仏典の『大パリニッバーナ経』(中村元訳『ブッダ最後の旅』、p.3)によると、ヴァッジ国では、釈尊のころから共和制によって政治を行なっていたことが知られているが、この注釈からすると、合議制で国が運営され、国主は選挙で選ばれるということが行なわれていたようである。<br> | ||
+ | ヴァィシャーリーは商業都市で、種々の民族が集い、自由主義的な気風に満ちていた。釈尊滅後100年たったころヴァイシャーリーで行なわれた第2回仏典結集(編纂会 | ||
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中インド、バイシャーリーの長者ビマラキールティ(維摩詰、[[ゆいま|維摩]])の病気を菩薩や仏弟子たちが見舞うが、みな維摩にやりこめられる。[[もんじゅぼさつ|文殊菩薩]]のみが維摩と対等に問答をし、最後に維摩は究極の境地を沈黙によって示す。全編戯曲的な構成のなかに旧来の仏教の固定性を批判し、在家者の立場から大乗の[[くう|空]]の思想を高揚した初期大乗仏典の傑作である。中国、日本で広く親しまれ、[[しょうとくたいし|聖徳太子]]の[[さんぎょうぎしょ|三経義疏]]の一つ『''維摩経義疏''』をはじめ、注釈も多い。 | 中インド、バイシャーリーの長者ビマラキールティ(維摩詰、[[ゆいま|維摩]])の病気を菩薩や仏弟子たちが見舞うが、みな維摩にやりこめられる。[[もんじゅぼさつ|文殊菩薩]]のみが維摩と対等に問答をし、最後に維摩は究極の境地を沈黙によって示す。全編戯曲的な構成のなかに旧来の仏教の固定性を批判し、在家者の立場から大乗の[[くう|空]]の思想を高揚した初期大乗仏典の傑作である。中国、日本で広く親しまれ、[[しょうとくたいし|聖徳太子]]の[[さんぎょうぎしょ|三経義疏]]の一つ『''維摩経義疏''』をはじめ、注釈も多い。 | ||
2024年11月10日 (日) 18:54時点における版
維摩経
ビマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ、Vimalakīrti-nirdeśa-sūtra、विमलकीर्ति निर्देश सूत्र
大乗仏教経典の一つで、サンスクリット原典は失われ、チベット語訳と3種の漢訳(支謙訳、鳩摩羅什訳、玄奘訳)が現存する。一般に用いられるのは鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』(ゆいまきつしょせつきょう)である。
『維摩経』(「ヴィマラキールティの教え」の意)は、1〜2世紀ころに成立したと思われる大乗経典である。そのサンスクリット本は、引用の形で他書に数個の断片が見られる以外には存在せず、ただ三種の漢訳と一種のチベット訳とがあるだけである。三種の漢訳は、「大正大蔵経』第14巻に収められ、474番『仏説維摩詰経』2巻(3世紀前半、呉の支謙の訳)、475番『維摩詰所説経』3巻(5世紀はじめ、姚秦の鳩摩羅什の訳)、476番『説無垢称経』6巻(7世紀、唐の玄奘の訳)である。チベット訳は『東北目録』(デルゲ版)の176番、『大谷目録』(北京版)の843番にあたる。
これらの諸本のうち、最も親しまれてきたものは、鳩摩羅什の漢訳である。漢訳は、一般に原文を簡略化し、あるいは修飾補筆することなどが多い。それに対して、チベット訳は、一言一句直訳的であって、最も原文の体裁を保存するものと考えられている。最近、大鹿実秋氏は、デルゲ・北京・ナルタンの三版を校訂して、このチベット訳本文を出版した含インド古典研究』I、成田山、1970年)。
サンスクリット本の発見
大正大学綜合佛教研究所は1990年に中国民族宮・中国民族図書館との学術交流事業を締結し、同図書館蔵の梵文写本調査を端緒として、中国各地の仏教文献調査を行なってきた。その一環として1997年チベット自治区の学術調査が許可され、1999年7月にはチベット・ポタラ宮所蔵サンスクリット文献調査が実現した。
ポタラ宮側で作成された目録を呈示され、『ポタラ宮所蔵梵文貝葉目録』ポタラ宮管理処目録番号39号030号 甘珠尓
1. Āryasarvabuddhaviśayāvatārajñānālokālaṃkāra nāma mahāyānasūtram
入一切佛國智明庄嚴大乘經
2. Abhiratiyogabhātvanākśobhyotothāgatarṣana(ママ)
如来得不動妙楽光明瑜伽星曜経
この2.の不思議な経典名が『維摩経』であった。
同大は1999年7月、ダライ・ラマの書斎を調査中、今回の写本を発見した。縦6センチ、横30センチのヤシの葉の表裏に、7行ずつ経文を記し、全部で約80葉。8世紀のインドの王の侍従が写経したと記す奥付があった。
表紙には経題がなく、経の一章の題があったので、見逃されていたらしい。発見は「偶然だった」(松濤誠達・同大学長)という。
挟まっていた布の書き付けによると、ラサの西約500キロのツァム地方の名刹シャル寺の所蔵だったのが、中国の文化大革命で同寺が破壊された際に北京へ運ばれ、最近ポタラ宮へ持ち込まれたとみられる。
内容
『維摩経』は、『般若経』に続き『法華経』よりやや先行して著わされた代表的な初期大乗仏典の一つである。『維摩経』は『般若経』と同様、「空」の思想を説くものだが、『般若経』に呪術的なことが多く説かれているのに対して、『維摩経』には呪術性は全くない。「空」なるがゆえに、現実生活において人々のために積極的に行動する菩薩の在り方が強調されているという点が際立っている。
在家主義、男女平等といった思想が、極めて戯曲的な手法で展開されていて、その小気味よい痛快なドラマ的展開は中国の文人たちに愛好され、敦煌や雲崗の石窟の壁画のテーマとしても取り上げられた。わが国においても 538年に仏教が伝来すると、聖徳太子(574〜622年)は、『維摩経義疏』(伝613年)と題する注釈書を著わした。それは、『法華経義疏』(伝615年)、『勝鬘経義疏』(伝611年)と合わせて『三経義疏』と呼ばれている。わが国でも、『維摩経』は仏教伝来の当初から重視されてきた。
この経典の主人公はヴィマラキールティ(vimalakīrti)という名前であり、支謙(2〜3世紀)と鳩摩羅什(344〜413)は「維摩詰」と音写した。vimalakīrtiは、vimala と kīrti の複合語である。その vimalaは、vigata-mala の省略形で「汚れ(mala)を離れた(vu-gata)」を意味し、kīrti(名声)とともに所有複合語を形成して「汚れのない名声を持つもの」という意味になる。これを、吉蔵(549〜623)はその注釈書で「浄名」と称し、玄奘(602〜664)は「無垢称」と漢訳した。
『維摩経』の舞台は、ガンジス河中流域の北方、ヴァッジ国の首都ヴァイシャーリー(毘耶離)という都城で、マガダ国の首都パータリプトラ(現在のパトナ)から北へ50キロメートルほど離れたところに位置している。
鳩摩羅什は、その注釈で「彼の国に王無し。唯、五百の居士、共に国政を治む。今、主と言うは衆の推す所なり」(僧肇撰『注維摩詰経』)と記している。原始仏典の『大パリニッバーナ経』(中村元訳『ブッダ最後の旅』、p.3)によると、ヴァッジ国では、釈尊のころから共和制によって政治を行なっていたことが知られているが、この注釈からすると、合議制で国が運営され、国主は選挙で選ばれるということが行なわれていたようである。
ヴァィシャーリーは商業都市で、種々の民族が集い、自由主義的な気風に満ちていた。釈尊滅後100年たったころヴァイシャーリーで行なわれた第2回仏典結集(編纂会
中インド、バイシャーリーの長者ビマラキールティ(維摩詰、維摩)の病気を菩薩や仏弟子たちが見舞うが、みな維摩にやりこめられる。文殊菩薩のみが維摩と対等に問答をし、最後に維摩は究極の境地を沈黙によって示す。全編戯曲的な構成のなかに旧来の仏教の固定性を批判し、在家者の立場から大乗の空の思想を高揚した初期大乗仏典の傑作である。中国、日本で広く親しまれ、聖徳太子の三経義疏の一つ『維摩経義疏』をはじめ、注釈も多い。