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「じねん」の版間の差分

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(日本中世の自然)
(自然外道)
 
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==仏教用語としての自然==
 
==仏教用語としての自然==
 
 しかし一般的な仏教用語としての「自然」の用法には、仏教から批判の対象となった使い方と仏教が肯定的に使う場合との両様がある。批判の対象となったものとしては、インドの[[じねんげどう|自然外道]]と中国の老荘の自然説があげられる。
 
 しかし一般的な仏教用語としての「自然」の用法には、仏教から批判の対象となった使い方と仏教が肯定的に使う場合との両様がある。批判の対象となったものとしては、インドの[[じねんげどう|自然外道]]と中国の老荘の自然説があげられる。
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===唯識の自然===
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 おのずから。みずから。しぜんに。
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 煩悩とは其の相が自然に寂静ならざるを謂う。
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 功用に由らずして自然に解脱す。
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 仏は師なくして自然に覚悟す。
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 衆縁あるが故に生じ、生じ巳って自然に滅す。
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 一切の音声は刹那に生じ、自然に即ち滅す。
  
 
===自然外道===
 
===自然外道===

2025年3月3日 (月) 11:50時点における最新版

自然

svabhāva,svayaṃbhū

 日本では古くから漢音<かんおん>で「しぜん」とのよみと,呉音<ごおん>で『じねん』の両様のよみが行われ、平安末期の古辞書『色葉字類抄』などにも両様のよみがみえる。しかし、古くは仏教語に限らず概して「じねん」のよみが優勢だったようで、平安中期以後の仮名書き例にも「じねん」が多い。

中国の自然

 仏教伝来以前の中国では、『老子』に

 功成り事遂(と)げて、百姓は皆我れを自然と謂(い)う    (17章)
 (聖人は)万物の自然を輔(たす)けて敢て為さず    (64章)

とあり、『荘子』に

 物の自然に順(したが)いて私を容るる無し    (応帝王篇)
 常に自然に因りて(吾が)生を益さず    (大宗師篇)
 真とは天より受くる所以なり、自然にして易(か)うべからず    (漁父篇)

などとあるように、「自然」とは「自(おのずか)ら然(しか)る」、すなわち本来的にそうであること(そうであるもの)、もしくは人間的な作為の加えられていない(人為に歪曲されず汚染されていない)あるがままの在り方を意味する。『歎異抄』にいわゆる

 わがはからはざるを自然(じねん)とまうすなり

である。

仏教用語としての自然

 しかし一般的な仏教用語としての「自然」の用法には、仏教から批判の対象となった使い方と仏教が肯定的に使う場合との両様がある。批判の対象となったものとしては、インドの自然外道と中国の老荘の自然説があげられる。

唯識の自然

svayam: sva-rasa (S)

 おのずから。みずから。しぜんに。

 煩悩とは其の相が自然に寂静ならざるを謂う。
 功用に由らずして自然に解脱す。
 仏は師なくして自然に覚悟す。
 衆縁あるが故に生じ、生じ巳って自然に滅す。
 一切の音声は刹那に生じ、自然に即ち滅す。

自然外道

 自然外道は六師外道の一つと考えられるもので、原始経典の沙門果経(pl. sāmaññaphala-sutta)によると、果(出来あがったもの)としての事物は因縁によらず、固定的な自性によって、はじめからそのように決定づけられて、その意味で自然に存していると主張した。そこから、決定論(niyati-vāda)とか自然説(svabhāva-vāda)と評された。因果論からは、無因有果説とみなされた。すべては固定され、決定づけられており、改変は不可能で、あるがままに任せるよりほかないという意味で「自然」(svabhāva)といったもので、因果形成の人間の努力を否定した邪説として、宿命論とともに強い批判が仏教から向けられた。自然外道にたいする仏教からの批判は、中国や日本においてもしばしばなされたが、さらに中国では、たとえば天台智顗の『摩訶止観』(10上)や吉蔵の『中観論疏』(1末)で、『荘子』の自然説がインドの自然外道と同様な形で批判された。

法華経の自然

 法華経原典と竺法護訳の『正法華経』(正法華)および鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』(妙法華)とを対照させると、svabhāva・自然・実相、svayaṃbhū・自由あるいは自在・自然となる。正法華が「自然」と訳したsvabhāvaの意味は、妙法華の「実相」という訳に示されているように、事物のありのままのすがたということで、いいかえれば、自己にたいする固執の念(人(にん)我見)を捨て(人空)、事物を事物に即して、あるがままに観察し、生かすということであり、いっぽう、妙法華が「自然」と訳したsvayaṃbhūは、正法華が「自由」とか「自在」と訳したように、対象的事物にたいする固執の念(法我見)を捨て(法空)、対象にとらわれひきずられて失った自己を回復し、自由・自在に自己を生かすということである。正法華・妙法華に共通した「自然」の訳語でいえば、仏教が肯定的に使う「自然」とは、事物をあるがまま(自然)に生かし、自己を自由・自在(自然)に生かすということで、一口にいえば、客観的にして主体的ということである。

『肇論』の自然

 『肇論』(涅槃無名論)

 玄根(みち)を未始(むなしき)に抜(さと)り、群動(ばんぶつのうごき)に即して以て心を静め、恬淡淵黙(てんたんえんもく)、自然と妙契(ぴったりひとつ)になる

や『景徳伝灯録』(5)

 (慧能曰く)我の説く不生不滅は外道に同じからず…但(た)だ一切善悪、都(す)べて思量すること莫(な)ければ、自然にして清浄の心の(本)体に入ることを得、湛然(たんねん)として常に寂(じゃく)、妙用は恒沙(かぎりなき)なり

などの禅文献の説く「自然」が、この意味において注目され、東晋の孫綽が

 色と空とを泯(ほろぼ)して以て跡を合(ひとつに)し、忽ち有(ゆう)に即して玄(みち)を得(さと)り
 自然の妙有を運(めぐら)して
 体を自然に同じくす    〔遊天台山賦〕

などと述べるように、を妙有とし、さらに真空とする解釈を展開させてゆく。これが、ひいては空(人空・法空)の積極的意味ともいえよう。

無量寿経の自然

 3世紀の半ばに漢訳された無量寿経に、「自然虚無之身」とか「天道自然」「無為自然」などと「自然」の語が頻出している。しかし、それにあたるサンスクリット原語は見あたらず、翻訳にさいしての中国思想の借用が考えられるとともに、そこでの「自然」の意味が問われてくる。後世になれば、仏教思想と中国思想との違いが意識されるにいたり、仏教から老子の無や、さきにふれたように老荘の自然説にたいして批判が加えられたが、中国思想それ自体の側からはどのように仏教の批判が受けとめられたか、検討を要する。

願力自然

 本願の不思議力の自然なること。他力本願の意味である。阿弥陀仏の願力を信じ、救いをたのむ念仏行者は、なんらのはからいをも用いないで法性常楽の浄土に往生しうることをいう。

もとよりしかあらしむること。〔末灯鈔
 自然といふは、自はをのづからといふ、行者のはからひにあらず、然といふはしからしむといふことばなり。…弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはいを、自然とはまうすぞとききてさふらふ。…無上仏とまうすは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆへに自然とはまうすなり。    〔末灯鈔5〕
凡夫自力のはからひに依らず他力のはからひに依ること。    〔正信偈

日本中世の自然

 日本の中世において、仏教界はいうに及ばず、一般思想界でも、共通して「自然」が強調された。
 たとえば、法然という名は「法爾(ほうに)自然(じねん)」の略であり、親鸞には「自然法爾章」と名づけられた文がある。「法爾自然」ないし「自然(じねん)法爾」は、事物(法)が作為を越えて本来自然に存することをいったものである。慈円の『愚管抄』にも「自然」という語が見えている。このように中世の共通理念の一つとなった「自然」が、仏教の原点から批判の対象となるものか、あるいは肯定されるものか、日本の中世思潮の傾向を知る上でも、検討すべき問題である。

 (極楽浄土では)水鳥・樹林、皆妙法を演(の)べ、およそ聞かんと欲する所は、自然に聞くことを得    〔往生要集(大文第2)〕