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2006年5月13日 (土) 10:50時点における版
目次
地獄
(naraka skt.) 捺落迦、那洛迦、那落
(niraya skt.) 捺落迦、那洛迦、那落
那洛迦、捺落迦について『大毘婆沙論』では「捺落〈nara〉は人に名づけ、迦〈ka〉は悪に名づく」として、ナラカは悪人がそこに生ずるところという意味であるといい、また「落迦」〈raka〉は可楽の意味、「捺」〈na〉は打ち消しの意味であるから、捺落迦とは「楽しむべからざるところ」という意味であると説明されている。すなわち「不可楽」「壊喜楽」「無帰趣」「無救済」「苦器」「卑下」「顛墜」などの義があるといわれている。
『玄応音義』では「不可楽」「不可救済」「闇冥」「地獄」の四義があると説明している。
仏教では、地獄を三悪道(地獄、餓鬼、畜生)、五趣(地獄、餓鬼、畜生、人間、天上)の一つとし、さらに六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅道、人間、天上)の一つ、十界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏)の一と数え、一番苦の多い境界と考えられている。
インドでの地獄
地獄については、西紀前十世紀のベーダ末期から前第七世紀の梵書時代にかけて、整った考えがあったと思われ、仏教以前から説かれてきた。。しかし、非常に盛んに説かれたのは、仏教時代にはいってからである。仏教では、人間生活における倫理道徳的反省の材料として利用したと思われる。
現存する文献によれば、インド一般のバラモンの考えかたと、仏教の考えかたとでは相当の違いがある。地獄の数や様相も、たとえばバラモンの説では七地獄や二十一地獄と奇数が多く、仏教のそれは八地獄を主とし、十六眷属地獄などの偶数で数えられることもおもしろい特徴を示している。
双方の違いは、バラモンでは地獄を地獄そのものとして説明するが、仏教では、むしろ煩悩の禍に、これを比べながら説明して、教化的な説相がとられている。
仏教の地獄
地獄の場所についてみると、古い経典では、地獄を世界の涯にあるものと考えていた。
『長阿含経』の中の『世記経』「地獄品」では、この四天下に八千天下、があり、そのほかに大海水、があり、それをめぐって金剛山がある。さらに、その第一の金剛山のほかに第二の金剛山が大海水をはさんで、そびえている。ところが、この二金剛山の中間は、日も月もどのような威神力のある神も光を投ずることができない暗闇の世界であり、そこに八大地獄、があるといっている。
他の経典では、この金剛山を鉄囲輪山(須弥山を中心とする九山の一番外がわの山)として説いている。いずれにしても、これは地獄を世界の涯にある世界と考えたものである。ところが、後になると仏教では、この閻浮州〈jambu-dviipa〉(閻浮提ともいう)の底に縦横高さ二万由旬の地獄があるといい、これを阿鼻〈aviici〉地獄(無間地獄)というとして、それより地表にむかって七種の地獄があると説くようになる。
このように、地獄の位置が世界の涯から、自分たちの住んでいる場所の下にあるというようになったということは、地獄の説きかたが、しだいに主体的になってきたことを示すもの、ともみることができるであろう。
仏教でいう地獄は自分自身の業報によって現われた自己業感の境界である。それは他の教えのように神などが作った世界ではない。いっさいの悪はすべて心の所作であり、心の所作に従ったその罪業が苦悪処である地獄処を感ぜしめるのであり、地獄の苦は罪業の所感であると説く。
地獄の境界
自己の罪業によって感じられる境界としての地獄は、十寒、八熱、十六増などと説かれている。たとえば、『倶舎論』のように、やや固定した時代になると、八寒地獄、八熱地獄とその一つ一つにある十六の眷属地獄と、さらに孤地獄を説くようになる。
ところで、地獄の種類やその様相についての説明には、2つの系統がある。『長阿含経』の『世記経』に説かれる地獄説と、『正法念処経』の地獄説の流れである。
傾向として前者は十分に仏教化されていないようであり、地獄の位置も世界の涯に横にひろがってあると考えられている。
後者の流れは『倶舎論』などが、この系統に属するように、仏教化されたものと考えられ、地獄はこの地の底に錐状形にあると考えられている。
古層の仏教の説く地獄
古い方の系統の種類つぎのようである。
- 八大熱地獄
- 等活
- 黒縄
- 衆合
- 叫喚
- 大叫喚
- 焦熱
- 大焦熱
- 無間〈阿鼻旨〉)
ついで、この八大熱地獄に十六の別処を説く。
- 黒雲沙
- 糞尿泥
- 五叉
- 飢
- 渇
- 膿血
- 一銅釜
- 多銅釜
- 鉄磑
- 函量
- 鶏
- 灰河
- 斫載
- 剣葉
- 狐狼
- 寒水
これら十六はすべて八大熱地獄に通じて別処としてあるといわれる。
次に、この系統では十地獄も立てる。名称のうえでは他の系統の八寒地獄の名ときわめてよく似ているが、意義についてはまったく別である。
十地獄とは
- 頞浮陀(厚雲)
- 泥囉浮陀(無雲)
- 阿呼(呵呵)
- 呼呼婆(奈何)
- 阿咤咤(羊嗚)
- 掻捷提迦(須乾提〈黒〉)
- 優鉢羅(優鉢羅〈青〉)
- 波頭摩(鉢頭摩〈赤〉)
- 奔荼利(分陀利〈白〉)
- 究牟陀(拘物頭〈紅〉)
である。前の名は『起世因本経』、括弧内は『長阿含経』によったが、この十地獄はみな熱地獄である。
仏教の地獄
後世仏教化されたと思われる『正法念処経』によれば、まず八熱地獄については前者と同じであるが、その八熱にそれぞれ別々の十六の眷属小地獄を説いている。ただし、大叫喚地獄のみは十八の小地獄を説く。
次に八寒地獄を説く。
- 頞部陀 〈arbuda〉
- 尼刺部陀〈nirarbuda〉
- 頞晰吒〈aTaTa〉
- 臛々婆〈hahava〉
- 虎々婆〈huhuva〉
- 嗢鉢羅〈utpala〉
- 鉢特摩〈padma〉
- 摩訶鉢特摩〈Mahapadma〉
八熱地獄
- 等活〈saMjiiva〉 罪人の身体、冷風によってもとと等しい姿に活きかえることをいったものである。すなわち、この地獄の有情は手に鉄爪を生じ、互いに砕破して苦しみ、また鉄棒や利刀で肉を引き裂かれる苦にあう、しかし冷風によって常にもとの身体にもどって、また苦をうげる。このようにして苦がたえることがないといわれる。この地獄へは『増一阿含』によれば、正見をこわし正法を誹謗し正法を遠離したものが生まれるとするが、『正法念処経』では殺生罪を犯したもののゆくところという。殺生の報いとして等活地獄の苦をうけるという説明は確かにうなずげる。ものの生命を奪える時、奪われしものの苦を奪ったものが受けるのは当然であろう。
- 黒縄〈kaalasuutra) 熱黒縄で罪人がしばられ、斧や鋸で砕斫され苦しむというのである。これについて古い方では好んで殺生を喜んだものがおちるところといい、後者(正法念処経)では殺生と偸盗の罪人がおちるところとしている。
- 衆合〈samghata〉 牛羊の類を屠殺したものがおちる(前者)といい、また殺盗婬のものが趣く世界(後者)ともいうが、その苦の模様は大きな石の間で圧殺されたり、鉄臼でひかれたり、赤熱のくちばしをもつ鷲によって身を引き裂かれるなどと説かれる。ことに刀葉林があり、頂上に女あり、これを求めて身体が刀葉にて引きさかれるのもしらず木にのぼる。のぼりおわって女を得たと思えば、女はすでに地上にて、この人を招く。そこで、また刀葉にひきさかれながら下界へと、これまったく現世に女を求めて婬戒を破った罪の報いにふさわしいことというべきである。
- 叫喚〈raurava〉 地獄の有情、苦のために叫喚をあげるところの意味、ここには「だまって他人のものを盗める人」がくるとか「殺盗婬の三を犯し、さらに飲酒せるもの」が趣くとかいわれる。熱湯の大釜や火のもえる鉄室の中で、苦をうげ叫びつづけるという。
- 大叫喚〈mahaaraurava〉 これまたこの地獄において大叫喚する有情のすがたから名がつげられているのであるが、ここへは淫佚なるものや妄語せるものがおちるといい(前者)、殺・盗・婬・飲酒・妄語せるものがおちると(後者)いう。これよりすれば、大叫喚は泣きさけぶ声よりも、妄語したむくいであるから、叫喚しようとして、かえって叫喚することもできない境界である、ということもできるであろう。
- 焦熱〈tapana〉 正しく鉄の城や楼が大火坑となって罪人を焼き殺すところである。ここへは、世間でことばの取り次ぎばかりやっている人がくる(前者)といい、殺盗婬妄語邪見飲酒のものがくるという。
- 大焦熱〈prataapana) 殺・盗・飲酒・妄語・邪見および非梵行のものがくるといわれる。このうち、非梵行とは邪婬を比丘比丘尼の勝境において犯せしものをいう。
- 無間地獄=阿鼻〈avici〉地獄 古いものも新しいものも両者ともに五逆罪、謗法罪のものが趣くところといい、この点では、いずれも同じである。そこでは、有情の肢節より火炎がふき出て、その苦しみがたえることがないから無間というといわれる。
この八熱地獄はともに熱地獄であり、これに、それぞれ十六(十八)の小地獄を具していると詳しくされるのである。
八寒地獄
八寒地獄は熱に対する寒であるが、前にあげた八の中、初めの二所(①と②)は、寒風のために皮膚が縮みあがってしまう状態、次の三所(③と④と⑤)は寒風のために口舌がマヒして叫ぼうにも叫べない。叫べそうなのに叫べない。後の三越は皮肉がやぶれ、ただれて蓮華のごとくなるをいう。この八寒地獄は賢聖を誹謗したものが趣くところといわれる。
倶舎論の地獄
『倶舎論』巻十一には孤地獄を説く、すなわち辺地獄、独地獄ともいわれるが、『正法念処経』にも『雑阿含』にもないものであり、外道もまた考えないところである。いま『倶舎論』や『婆沙論』一七二によれば、この地獄は地上にあって江河や山辺、曠野に所在するといわれる。
日本に実在する地獄
古来、わが国では箱根の大地獄、別府の地獄、南部恐山の地獄、加賀の白山の油屋地獄、鍛冶屋地獄、信濃の浅間岳の地獄、立山の間男地獄などは、上の倶舎論などに説かれる孤地獄である。
仏教の説く地獄の特徴
仏教では自業自得であるから、地獄とは人間自身の罪業所感である。その点、地獄は人間の境界として人間にとって実在であるはずである。そのため、特に経典では単に地獄の様相を説かず、かならず仏の言として、いかに地獄の猛炎が強く激しくとも、人間自身のもつ火はより強いと、煩悩の火と比べて、また愛欲の炎とも比べてその様相を明らかにしている。
いわば、仏教が地獄を説くのは、単に地獄それ自身を説くのではなく、人間が罪を自覚して正しい境界に立ち、その煩悩を断ずることができるようにとの仏の念願が物語られているとみるべきである。
いま、このような観点に立って煩悩論を明らかにし、真実が何であるかを示そうとするのであるから、もし、地獄を現実にみれば、根本は人間の思いのままにならない人生、一切があてにならない人生、しかし、人生にとっては何か力になっていくものがなければならない。そして、力にしたものから次々にそむかれて苦しんでいる。それこそ地獄のすがたであり、さらに、そのような苦は自己自身が作り出しているものであるのに、ほかのだれかによって準備されたと他を怒り、他を怨んで苦しい生涯を送らねばならないわれわれの姿をいったものとも理解されるのである。このような人間の姿が、地獄として人間以下の姿であると説くことに、われわれは正しい人間を求め、人間として生きるよう努めねばならないのを知るであろう。