「くまらじゅう」の版間の差分
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+ | *『''[[ちゅうろん|中論]]'' 』4巻 | ||
+ | *『''大乗大義章'' 』3巻 廬山の[[えおん|慧遠]]との問答集 | ||
+ | *『''注維摩詰経'' 』10巻 弟子の[[そうじょう|僧肇]]の編 | ||
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+ | 門弟には、道生・僧肇・道融・慧観(えかん)らをはじめ、三千余人以上もいたといわれる。 |
2006年5月24日 (水) 13:08時点における版
鳩摩羅什
(くまらじゅう、(sanskrit) kumaarajiiva कुमारजीव)、(350年-409年頃)「羅什」「什」とも略される。古くは『くもらじゅう』と読んだこともある。
中国、南北朝時代初期の訳経僧で、インドの貴族の血を引く父と亀茲(きじ)国の王族の母との間に生れ、7歳のとき母とともに出家した。
はじめは原始経典や阿毘達磨(アビダルマ)仏教を学んだが、やがて具足戒を受けたのち須利耶蘇摩(すりやそま)と出会って大乗に転向し、主に中観派の諸論書を研究した。
384年、亀茲国を攻略した呂光の捕虜となり、以後18年間、呂光・呂纂の下で涼州での生活を余儀なくされたのち、401年、後秦の姚興(ようこう)に迎えられて長安に入った。女人を受け入れたため戒律を破ったが、以来、在俗的な生活の中で10年足らずの間に精力的に経論の翻訳を行うとともに、多くの門弟を育てた。
東アジアの仏教は、かれによって基本的に性格づけられ方向づけられたといってよい。
主な訳出経論
- 『坐禅三昧経 』3巻
- 『阿弥陀経 』1巻
- 『大品般若経 』24巻
- 『法華経 』7巻
- 『維摩経 』3巻
- 『大智度論 』100巻
- 『中論 』4巻
- 『大乗大義章 』3巻 廬山の慧遠との問答集
- 『注維摩詰経 』10巻 弟子の僧肇の編
門弟には、道生・僧肇・道融・慧観(えかん)らをはじめ、三千余人以上もいたといわれる。