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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

 
(菩提流志)
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『無量寿経優婆提舎』は、[[どんらん|曇鸞]]が『[[おうじょうろんちゅう|往生論註]]』を書いて、中国浄土教を体系付けることとなる。
 
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南インドのバラモン出身の僧が武帝の頃中国にやって来て翻訳に従事した。
 
南インドのバラモン出身の僧が武帝の頃中国にやって来て翻訳に従事した。
  
 
:沙門菩提流志。本名は達磨流支、中国語で法希。天后改めて菩提流志とする。中国語で覚愛という。南天竺国の人。《開元釈経録》
 
:沙門菩提流志。本名は達磨流支、中国語で法希。天后改めて菩提流志とする。中国語で覚愛という。南天竺国の人。《開元釈経録》

2007年12月2日 (日) 08:19時点における版

菩提留支

菩提流支とも音写する。bodhiruci बॊधिरुचि (skt.)。道希と訳す。(?-527年)

北インド出身の僧。北魏の都、洛陽で訳経に従事。大乗の経論を30部余り翻訳した。

主な翻訳経論

後世への影響

彼の渡来・翻訳は、当時インドで起こっていた唯識系の大乗仏教の動向を中国に紹介し、後世に大きな影響を与えることになった。
『十地経論』の翻訳によって、地論宗ができる。
『無量寿経優婆提舎』は、曇鸞が『往生論註』を書いて、中国浄土教を体系付けることとなる。


菩提流志

南インドのバラモン出身の僧が武帝の頃中国にやって来て翻訳に従事した。

沙門菩提流志。本名は達磨流支、中国語で法希。天后改めて菩提流志とする。中国語で覚愛という。南天竺国の人。《開元釈経録》