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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(如来)
(応身如来)
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諸仏のごとくにして来るゆえに「如来」と名づける。二身、三身に通じる。
 
諸仏のごとくにして来るゆえに「如来」と名づける。二身、三身に通じる。
  
:つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ[[ひっしめつどのがん|必至滅度の願]](第十一願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は'''如より来生'''して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり。  ([[きょうぎょうしんしょう|教行信証]]証巻 聖典註釈版 p.307)
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:つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ[[ひっしめつどのがん|必至滅度の願]](第十一願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。[[しんにょ|真如]]はすなはちこれ[[いちにょ|一如]]なり。しかれば弥陀如来は'''如より来生'''して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり。  ([[きょうぎょうしんしょう|教行信証]]証巻 聖典註釈版 p.307)
  
 
===如去===
 
===如去===
 
[[サンスクリット]]語で「suugata」(修伽陀)を「如去(にょこ)」あるいは「好去(こうこ)」と漢訳する。これは如実に生死を去るという意味。これによって、如来と如去は相対して、如去は向上自利であり、如来は向下利他である。この二つの言葉で仏の無住処涅槃を顕す。
 
[[サンスクリット]]語で「suugata」(修伽陀)を「如去(にょこ)」あるいは「好去(こうこ)」と漢訳する。これは如実に生死を去るという意味。これによって、如来と如去は相対して、如去は向上自利であり、如来は向下利他である。この二つの言葉で仏の無住処涅槃を顕す。

2014年5月27日 (火) 14:50時点における版

如来

(skt.)tathaagata तथागत。「多陀阿伽陀」と音写。

 「tathaagata」は、「あのような(tathaa)境涯(gati)に行きついた人」という意味で用いられており、インド古来から使われていた言葉だと考えられている。
 部派仏教では、「如」(tathaa)を釈尊が説いた理法が真実であり、永遠に変わらぬものという意味で用いて、さらに「gata」を「去った」、もしくは「aagata」を「来た」の意味で用いて、「tathaa+aagata」として「過去の仏と同じように来た」と教理的解釈を行って「如来」と漢訳している。
 この語は、大乗仏教に至っても同じように使われたが、「如」(tathaa)の解釈が根本的に変わっていった。おそらく般若系経典の思想が反映され、「如」が相対的な差別相に対する分別やとらわれを超えた、般若波羅蜜によって体得された、一切の事象の真実の姿である実相を名づけて「如」「真如」と呼んで、そのような意味としてとらえている。さらに「如」は、諸法の本来的なあり方であるから、法性と等しいとされている。

真身如来

「如」は「真如」。真如の道に乗じ、因より果に来たって、正覚を成ずるから「如来」と名づける。

如来とは、如実の道に乗じ、来たりて正覚を成ずるが故に、如来という。  (成実論 1 )
如実より来る。故に如来と名づく。‥‥涅槃を如と名づけ、知解を来と名づく。正しく涅槃を覚するが故に如来と名づく。  (転法輪論)
如実の道より来る。故に名づけて如来と為す。  (智度論 24)

応身如来

真如の道に乗じ、三界に来たって化を垂れるゆえに「如来」と名づける。応身如来。

如来というは如を体し、しこうして来たる。故に如来と名づく。
問うていう。如を体ししこうして来るが故に如来と名づくとは、是れ応身なるや。来の義あるべし。真如法身、いかんが来あるや。
答えていう。本陰、今顕すが如く、また来と称するを得。  (勝鬘宝窟上末)

諸仏のごとくにして来るゆえに「如来」と名づける。二身、三身に通じる。

つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり。  (教行信証証巻 聖典註釈版 p.307)

如去

サンスクリット語で「suugata」(修伽陀)を「如去(にょこ)」あるいは「好去(こうこ)」と漢訳する。これは如実に生死を去るという意味。これによって、如来と如去は相対して、如去は向上自利であり、如来は向下利他である。この二つの言葉で仏の無住処涅槃を顕す。