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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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(済度)
 
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nii(導く)、paritraaNa、uttaaraNa(救済(くさい))などの漢訳語で、単に「[[ど|度]]」と訳すこともある。
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<big>nī</big>(導く)、<big>paritrāṇa</big>、<big>uttāraṇa</big>(救済(くさい))などの漢訳語で、単に「[[ど|度]]」と訳すこともある。
  
 
 漢語としての「済」「度=渡」「済度」は、ともに、元々川を渡るという意味である。また「済世(さいせい)」「済民(さいみん)」と熟する場合の「済」は、豊かにし救うこと。「度世(どせい)」〔楚辞(遠遊)など〕は、俗世を超出して仙界に昇ること。[[どうきょう|道教]]文献に見える「度人(どじん)」は、人々を救い仙界に導くこと。
 
 漢語としての「済」「度=渡」「済度」は、ともに、元々川を渡るという意味である。また「済世(さいせい)」「済民(さいみん)」と熟する場合の「済」は、豊かにし救うこと。「度世(どせい)」〔楚辞(遠遊)など〕は、俗世を超出して仙界に昇ること。[[どうきょう|道教]]文献に見える「度人(どじん)」は、人々を救い仙界に導くこと。
  
 仏典では迷いの[[きょうがい|境界]]を去って[[さとり|悟り]]に至ることを表すut-√tR(越える)、nir-√yaa(脱出する)を「度」と訳すこともあるが、「済度」は、おおよそ[[ぶつ|仏]]や大乗の[[ぼさつ|菩薩]]が、迷いの境界、あるいは[[しょうじ|生死]]の[[く|苦]]の中に漂う[[しゅじょう|衆生]]を救い、悟りの世界へ導くことをいう。生死の苦を「海」に、仏や菩薩を「船頭」に、悟りの世界を「[[ひがん|彼岸]]」に、それぞれ譬えた表現である。
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 仏典では迷いの[[きょうがい|境界]]を去って[[さとり|悟り]]に至ることを表すut-√tṛ(越える)、nir-√yā(脱出する)を「度」と訳すこともあるが、「済度」は、おおよそ[[ぶつ|仏]]や大乗の[[ぼさつ|菩薩]]が、迷いの境界、あるいは[[しょうじ|生死]]の[[く|苦]]の中に漂う[[しゅじょう|衆生]]を救い、悟りの世界へ導くことをいう。生死の苦を「海」に、仏や菩薩を「船頭」に、悟りの世界を「[[ひがん|彼岸]]」に、それぞれ譬えた表現である。

2017年5月9日 (火) 05:05時点における最新版

済度

(導く)、paritrāṇauttāraṇa(救済(くさい))などの漢訳語で、単に「」と訳すこともある。

 漢語としての「済」「度=渡」「済度」は、ともに、元々川を渡るという意味である。また「済世(さいせい)」「済民(さいみん)」と熟する場合の「済」は、豊かにし救うこと。「度世(どせい)」〔楚辞(遠遊)など〕は、俗世を超出して仙界に昇ること。道教文献に見える「度人(どじん)」は、人々を救い仙界に導くこと。

 仏典では迷いの境界を去って悟りに至ることを表すut-√tṛ(越える)、nir-√yā(脱出する)を「度」と訳すこともあるが、「済度」は、おおよそや大乗の菩薩が、迷いの境界、あるいは生死の中に漂う衆生を救い、悟りの世界へ導くことをいう。生死の苦を「海」に、仏や菩薩を「船頭」に、悟りの世界を「彼岸」に、それぞれ譬えた表現である。