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− | + | また、『[[そんごうしんぞうめいもん|尊号真像銘文]]』〔註655〕では、「帰命」「発願回向」を[[しゅじょう|衆生]]の信心と解釈し、善導をうけて衆生の上での解釈も示している。<br> | |
+ | すなわち、『教行信証』'''行巻は他力回向の法としての名号'''の解釈であり、『銘文』は'''他力回向の名号が衆生の上ではたらいている'''ことを解釈したものであるといえる。 | ||
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[[れんにょ|蓮如]]は、善導・親鸞の解釈をうけて『御文章』3帖目第8通〔註1148〕、5帖目第13通〔註1200〕等において、「南無(信心)」の2字と「阿弥陀仏(法)」の4字にわける解釈や、6字全体を機、または法とする解釈をしている。 | [[れんにょ|蓮如]]は、善導・親鸞の解釈をうけて『御文章』3帖目第8通〔註1148〕、5帖目第13通〔註1200〕等において、「南無(信心)」の2字と「阿弥陀仏(法)」の4字にわける解釈や、6字全体を機、または法とする解釈をしている。 |
2020年5月13日 (水) 16:25時点における版
六字釈
南無阿弥陀仏の6字についての解釈のこと。
善導の六字釈
善導は「玄義分」〔七註325〕において、南無阿弥陀仏について、「南無」は「帰命」「発願回向」、「阿弥陀仏」は「即是其行」の義であり、浄土往生に必要な願と行とが6字に具わっていると主張している。摂論宗の学徒が、『観無量寿経』下品下生に説かれる念仏は釈尊の別時意の説であって唯願無行であると論難したことに対するもので、これを「願行具足の六字釈」という。
親鸞の六字釈
善導の意をうけた親鸞は『教行信証』行巻〔註170〕において、6字全体の意味を「帰命(仏の勅命)」と「発願回向(仏の発願回向)」と「即是其行(仏の行徳)」の3義であらわし、善導が衆生の上で説いた南無阿弥陀仏の意味を、すべて阿弥陀仏の上で解釈することによって、智慧と慈悲をそなえている名号の本質的な意義を明らかにしている。
また、『尊号真像銘文』〔註655〕では、「帰命」「発願回向」を衆生の信心と解釈し、善導をうけて衆生の上での解釈も示している。
すなわち、『教行信証』行巻は他力回向の法としての名号の解釈であり、『銘文』は他力回向の名号が衆生の上ではたらいていることを解釈したものであるといえる。
蓮如の六字釈
蓮如は、善導・親鸞の解釈をうけて『御文章』3帖目第8通〔註1148〕、5帖目第13通〔註1200〕等において、「南無(信心)」の2字と「阿弥陀仏(法)」の4字にわける解釈や、6字全体を機、または法とする解釈をしている。