ほっしょう
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
法性
dharmatā (S)
「実相」あるいは「真如」と同じ。事物の本質、事物が有している不変の本性を意味する。
仏教で法という場合、事物としての意味と、それを成り立たせる真理としての意味をあわせ持っているが、この2面が次第に分離し、存在現象(事物)としての法とその本質としての法性とが相対させられるようになり、特に_唯識派に至ってこの区別が強調されるようになった。
真実・永遠の仏身(法身)を「法性身」、世界を「法性土」などという。
性とは体の義、不改の義、真如が万法の体となり、染に在るも浄に在るも、有情数に在るも非情数にあるもその性不改不変であるから法性と云ふ。さてこの法性について小乗は多くこれを言はず、大乗の諸家は盛んにこれを論ず。しこうして凡そ4家の不同あり。
第1に法相慈恩家は言く、法性とは三性中の円成実性にして、これ依地起性である一切有為万法の所依なり、法が所依の本体なれば法性と名く、これ万法と法性とは有為無為畢竟隔別なり、これ法性随縁の義を許さざれぱなり。
第2、三論嘉祥家は、かの円成実性の実有も許さず、真空をもって法性となす、法性とは真空の異名なり。諸法の性は真空なり、真空即妙有であり、妙有の性は即ち真空であるこれ法性なりである。
第3、華厳賢首家は、真如に不変随縁の2義があり、随縁の義を以って一切諸法を変造す、変造すれどもなお真如不変を保つことは、水が変じて波となるがなお水の性は変わらないようなもので、このように真如随縁して万法を変造するに依って真如を称して法ガ性と云ふのである。しかるにこの法性たる真如は淳善無垢でありさらに染分の性はなく、但だ所変の法に染
浄の別があるのは縁に染浄があるに由るのである。
第4、天台智者家は、法の性にもとから染浄を具して、これを性善性悪と云ふ、性に善悪を具するに依って染浄の諸法を生ずるのである。
- 衆生に定性なく、猶お水上の波のごとし。願は智慧風を得て、法性の海に吹入す。 〔『六波羅蜜經』〕
- 法性は本と空寂。取無く亦見無し。 〔『華巌經』昇須彌山品〕
- 法性者前説の如く、各の法空なり。同じく一空を為し、是れ法性と為す。 〔『智度論』32〕
- 法性とは、法は涅槃に名づく。壊すべからず、戯論すべからず。本分の種を名づけ、黄石の中に金性有り、白石の中に銀性有るが如し。是の如く一切世間の法中に皆な涅槃性有り。 〔〃〕
- 性とは、体の義なり。諸法の真理なるが故に法性と名づく。 〔『唯識述記』2本〕
- 性とは体の義なり。一切法が体なるが故に法性と名づく。 〔〃9末〕
- 法性即ち是れ実相。三乗道を得て之に由らざること莫れ。 〔嘉祥『法華疏』5〕
- 法性と言うは、自らの体法と名づく。法之体性なるが故に法性と云う。 〔『大乗義章』1〕
- 肇曰く。如と法性と実際と、この三空同一の実のみ。 〔『註維摩經』2〕
- 法性とは、是れ真体普遍の義を明かし‥‥通じて一切法を興し性と為す。即ち真如、染浄に遍じ、情非情に通じ、深広の義を顕す。 〔『起信論義記』〕
- 法性、天自り而然す。集は染に能わず、苦は悩に能わず、道は通に能わず、滅は浄に能わず。雲は月に籠れるが如く、妨害に能わず、却って煩悩已に乃し法性を見る。 〔『摩訶止観』1〕
- 法性、名づけて実相と為す。尚二乗の境界に非ず、况んや復凡夫をや。 〔〃〕
法称
法称は、7世紀中葉のインド仏教最大の知識論の学問僧の漢訳名である。サンスクリット語では、ダルマキールティ(Dharmakīrti)で、デカン地方の出身とされるが、生没年は不詳である。活動期は、インドに留学した玄奘と義浄との中間にあたる。
主要な著作は認識論・論理学にかかわるもので、「法称の七論」と称せられている。
- 知識論評釈;量評釈 Pranāṇa-vārttika
- 知識論決択;量決択
- 正理一滴(しょうりいってき) Nyāya-bindu
- 証因一滴(しょういんいってき)
- 論議の理論
- 関係の考察
- 他人の存在の論証
業績
法称は陳那(ディグナーガ、480年-540年ころ)の知識論を継承したが、それをさらに発展させ、より確実な理論に高めた。法称以降の仏教およびインド哲学諸派の認識論と論理学に重大な影響を与えた。
たとえば、知覚と推理の区別を厳密に規定し、推論式の証因(しょういん、媒名辞(ばいめいじ))の備えるべき3条件の理論を厳密化し、論理的に必然的な関係を同一性と因果性の2種に限定し、否定的推理の理論を完成し、陳那の唯名論的概念論をより発展させ、主辞(しゅじ)と賓辞(ひんじ)との遍充(へんじゅう)関係の相違に基づいて肯定命題を3種に分かつなど、画期的な業績をあげた。