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いんどぶっきょうし

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

2024年11月3日 (日) 09:42時点におけるマイコン坊主 (トーク | 投稿記録)による版 (アビダルマ哲学の展開)

インド仏教史

紀元前5~4世紀

都市と王権と自由思想

 インドにおけるアーリア人の東進が一段落し、彼らがガンガー河の肥沃な平原に定住したのちは、経済生活が向上し、多数の都市が生まれた。これらの都市を中心とした群小国家は次第に強力な王国に併合され、紀元前5世紀ころにはコーサラ、マガダ、アヴァンティ、ヴァンサの4大国が栄えた。これらの国では壮大な都市が営まれ、王族の権力と商工業者の実力が増大し、これまでのバラモン(司祭階級)を最上層とする階級制度はゆらぎ、ヴェーダ文化の権威も疑われて、自由思想家が輩出するに至った。懐疑論、唯物論、快楽主義なども勢いを得た。また、出家遊行しながら禅定を修め、真理の探究に努める人、沙門 śramaṇa も多くなった。ジャイナ教や仏教の開祖もそのような沙門のひとりである。

ゴータマ・ブッダ

 ヒマラヤ山麓に小国を成し、カピラ城に都していたシャーキャ族 Śākya の王子シッダールタ Siddhārtha は、ルンビニー園(現在のネパールのルンミンディー)に生まれた。成長後、ヤショーダラー Yaśodharā を妃とし、一子ラーフラ Rāhula をもうけた。
 しかし、人生に対して懐疑をいだき、29歳(一説に19歳)で出家し、諸国を遍歴してヨーガや苦行に努めたが、それらに満足せず、ついにブッダガヤー(現在のボードガヤ)の菩提樹下に瞑想して最高の境地に達し、覚めたる者、仏陀 buddha となった。そして、鹿野苑(現在のサルナート)での説法をはじめとして伝道を開始した。
 現在のビハール、ウッタル・プラデーシュの2州にあたる地域を主として教化活動を行ない、短期間のうちに多くの弟子と在家信者の帰依を得た。
 45年間にわたる伝道ののち、クシナガラ(現在のカシア)において80歳の命を閉じた。遺体は火葬にされ、遺骨は信者の手によって分骨され、8箇所に建てられたストゥーパ(塔)に納められた。

仏陀の没年

 仏陀の没年については、カシュミールの説一切有部の Sarvāstivādin, Vaibhāṣka の所伝を根拠にして計算した紀元前383年の説や、セイロン上座部 Theravāda の所伝をもとにした紀元前485年の説がある。その他前478年など、数種の有力な異説が現代の諸学者の間にあって、学問的にはまだ決着をみていない。

第1回結集

 仏陀の入滅した年に、ラージャグリハ(王舎城)において、マハー・カーシャパ Mahā-kāśyapa(大迦葉)の司会による500人の弟子たちの会議が行なわれた。ウパーリ Upāli (優波離)が戒律を、アーナンダ Ānanda (阿難陀)が教法を、それぞれ聞きおぼえていたままに暗誦し、それらを参集者が承認してその教義を確認したという。

紀元前4~3世紀

アレキサンドロス大王のインド侵入

 紀元前327年に、アレクサンドロス大王がアケメネス帝国の征服を完遂する目的でインドに侵入した。彼はインダス河畔にまで到達したが、そこから西方に兵を引き返した。しかし、その結果、イラン高原から中央アジアの一部に数多くのギリシア人植民地が出現した。

マウリヤ王朝とアショーカ王

 マガダでは、仏陀の時代以後も、大国による小国併合が進行したが、やがてハリヤンカ、シャイシュナーガ、ナンダの強力な諸王朝が続々とあらわれた。
 紀元前317年ころにチャンドラグプタがナンダ王朝を倒してマウリャ王朝 Maurya を創立した。彼はギリシア人の勢力を西方に遠く駆逐して北インドを平定し、パータリプトラ(現在のパトナ市)に都を定めた。この王朝は支配圏をさらに拡張し、チャンドラグブタの孫のアショー力王 Aśoka(前268即位)の時代には、インドの南端近くからヒマラヤまでのインド準大陸の大部分と、西はアフガニスタンからアラコシアに至る版図を有し、インド史上最大の帝国となった。アショーカ王はその偉業の記録とともに道徳的訓戒を法勅として発布し、それを石柱や磨崖に刻ませた。彼はまた、宗教を奨励し、とくに仏教を重んじ、自ら仏跡を巡拝したり、インド内外の各地に仏教の伝道師を派適したりした。セイロンにはマヒンダ Mahinda がおもむくが、これが南方仏数の発端となった。

第2回結集

 仏陀の没後110年(一説に100年)にして、ヴァイシャーリー(現在のビハール州北部)に700人の比丘が集まり、第2回の僧団会議を催した。
 このとき、進歩的な多数派が、時代と地域に適応するよう戒律の穏健な解釈十項目を提案したが、長老たちがこれに反対したために、以後仏教教団は、進歩的な大衆部 Mahāsṃghika と保守的な上座部 Sthavira-vāda, Theravāda とに分裂した。分裂の原因としては、上座部の理想とする聖者阿羅漢 arhat の人格に対する疑惑をはじめとする教理的な見解の相違も含まれていたと思われる。この教団の分裂がアショー力王の治下においてか、それ以後に起こったかは判明していない。

モッガリプッタ・ティッサ

 アショーカ王の仏教教団に対する供養をめあてに、資格のない者たちが教団に多数潜入したために混乱が起きた。王に招かれたモッガリプッタ・ティッサ Moggaliputta Tissa は上座部以外の非正統的な比丘を追放し、『論事』Kathā-vatthu を著わして正統説を論定した。

紀元前2~紀元後1世紀

ギリシア人と仏教

 アショーカ王の没後、マウリヤ王朝は衰退し、やがてプシヤミトラのシュンガ王朝(前187~175)にかわったが、プシヤミトラは仏教を迫害した。この王朝は長期の安定勢力とはならず、インドは再び分裂した。くわえて西北インドからはギリシア人が侵入しはじめた。ギリシア人の建設したパクトリア王国の勢力は、紀元前2世紀中葉にはガンダーラおよびパンジャープを支配した。これらのギリシア人は排外的なバラモン教に受け入れられなかったために、多くは仏教を信仰するに至った。『ミリンダ王の問い』(『那先比丘経』)Milindapañha はギリシア系諸王のひとりメナンドロスと仏教僧ナーガセーナ Nāgasena との問答を記録している。

スキタイ人、パルチア人と仏教

 紀元前1~紀元後2世紀の間、シャカ(スキタイ人)とパフラヴァ(パルチア人)がインドに侵入し、西北インドにおいてギリシア系の勢力と交替したが、文化的には逆に彼らのほうがギリシア化された。また同じように、彼らも仏教を信仰し、ストゥーパや寺院を建立した。

仏教諸部派の展開

 第二回僧団会議(結集)以後2派に分裂した仏教は、次第にさらに多くの部派に分裂した。紀元前後を境にして、学説や地域的な相違にもとづいて18ないし20の部派が成立するに至った。
 有力な部派は自派固有の三蔵(経、律、論)をそなえ、また各部派はそれぞれの地域の俗語を用いていた。南方仏教の聖典である現行のパーリ三蔵もその一つである。これらの三蔵は口誦によって伝承されていた。三蔵が文字に写されたのは紀元前1世紀にセイロンにおいて行なわれたのをはじめとする。

紀元後2世紀

クシャーナ王朝とカニシュカ王

 バクトリアの大月氏の支配下にあったトカーラ族の部族長の一つ、クシャーナ(貴霜)は紀元前後を境に次第に強大な勢力となり、大月氏と交替してクシャーナ帝国を築き、西北インドにも侵入した。王朝の第3代カニシュカ王 Kaniṣka はおそらく2世紀の前半に即位し、数十年間王位にあったが、バクトリア、西域、北インドをおおう広大な領域を支配した。この王朝は紀元後3世紀にササン朝ペルシアに滅ぼされるまで続いた。カニシュカ王は熱心な仏教者で、その保護のもとに仏教は著しく発展した。

仏教詩人の活躍

 カニシュカ王の友人のひとりであったアシュヴァゴーシャ Aśvaghoṣa(馬鳴)は、才能豊かかなサンスクリット詩人で、『仏所行讃』Buddhacarita、『端正なるナンダ』Saundarananda、『金剛針論』Vajrasūcī などを著わした。
 また、ややおくれてマートリチェータ Mātṛceta も『四百讃』、『百五十讃』などによって詩人の誉れが高かった。

アビダルマ哲学の展開

 クシャーナ王朝治下においては、諸部派のほかに大乗仏教も興起しているが、とくにその部派の一つである説一切有部(略して有部)が、その存在分折の哲学、アビダルマの体系を整備して発展した。『集異門足論』をはじめとする六足論、および『発智論』Abhidharma-jñānaprasthāna-śāstra の、いわゆる七論が次々に制作された。とくに『発智論』はカーティヤーヤニープトラ Kātyāyanīputra の作といわれ、この学派の教学において重要な意味をもつ、2世紀後半から3世紀にかけて、有部教学の集大成である『阿毘達磨大毘婆沙論』Abhidharma-mahāvibhāṣa-śāstra も成立した。この書ではヴァスミトラ Vasumitra(世友)、ダルマトラータ Dharmatrāta(法救)、ゴーシャカ Ghoṣaka(妙音)、ブッダデーヴァ Buddhadeva(覚天)のいわゆる4大論師などの学説が紹介され、異端、異教を退けて正統説を確立しようとした。この論書があまりにも大部なものであったため、その後『阿毘曇心論』その他の有部教義綱要書が所かれるようになった。パーリ聖典中のアビダルマも逐次整備されてきた。

大乗仏教経典の完成

 大衆部系統の仏教者の中では、従来の出家仏教の最高理想である阿羅漢にかわる理想的人格が追求され、また一般社会と隔絶した僧団生活の自利主義に対する批判も生まれていた。さらに、諸部派の理知的、分析的思考に対して、ヨーガの実践を中心とした神秘主誰、形而上学的思弁、信仰の重視などの新思想も発展してきた。これらの新興思想はストゥーパを中心とした一般信者の集団を基盤とし、利他と自己犠牲を本質とする菩薩の理想をかかげ、ヨーガの体験にもとづく空思想を教理的根拠として新しい仏教運動を展開した。
 紀元前1~紀元後3世紀の間に、『般若経』、『法華経』、『華厳経』、『無量寿経』、『維摩経』、『宝積経』(迦葉品)などの諸経典が続々と制作、増補、編纂された。紀元後2、3世紀には、この運動は一応、完成の域に述した.

仏教美術の発展

 宗教的修行者たちの禅定の実践のためと彼らの住居とにあてるために、石窟を開掘するならわしはすでにマウリヤ王朝時代にも盛んであったが、そのならわしはその後ますます発展し、紀元前1世紀からのちは、とくにデカン西部地方の諸所に石窟寺院が開掘された。これらは主としてアーンドラ王朝の富裕な王族や豪商、またはシャカ族などの寄進によったが、何代も引き継いで拡張されたために、アジャンター、エローラなどの大規模なものも成立するに至った。
 一方北インドではクシャーナ王朝の初期にギリシア風の美術が出現し、力ニシュヵ王の治世に最高期を迎えた。これはガンダーラ美術とよばれている。同じころ、ヤムナー河畔のマトゥラーを中心にした美術も興り、従来偶像化されることなく象徴的にのみ表現されてきた仏陀も、これらの美術では彫像されることになり、数多くの仏像、菩薩像が制作されるようになった。

3世紀

南インドの安定勢

 マウリヤ王朝崩壊後、北インドは政治的に安定しなかったが、南インドでは、サータヴァーハナ(またはシャータヴァーハナ)王朝のアーンドラ王国が紀元前2世紀から長く安定した勢力を築き、平和を保った。この王朝は紀元後200年ころまで繁栄するが、その後イクシュヴァークその他の部族に周辺地域を侵略され、最終的にはグプタ王朝に吸収された。その盛期にはクリシュナ川流域に、仏教およびヒンドゥ教の寺院が大規模に造営された。

ナーガールジュナ

 おそらく南インド、ヴィダルバ地方に生まれたと推察されるナーガールジュナ Nāgārjuna(龍樹、150~250ころ)は、『般若経』prajñāpāramitā-sūtra の真理にもとづいて、のちに中観哲学とよばれる思想体系の始祖となった。彼はサータヴァーハナ王朝に関係したと思われる。クリシュナ川右岸にナーガールジュナ・コンダという地名が残っている。
 著書に『中論』madhyamakaśāstra、『論争の超越』vigrahavyāvartanī(『廻識論』)その他多数あり、大乗仏教の理論的基礎を確立し、後世、八宗の祖師と仰がれた。

アーリヤ・デーヴァ

 ナーガールジュナの弟子、アーリ