り
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
理
(り、LĬ)
中国哲学の概念。本来、理は文字自身から、璞(あらたま)を磨いて美しい模様を出すことを意味する。そこから「ととのえる」「おさめる」、あるいは「分ける」「すじ目をつける」といった意味が派生する。理はもと動詞として使われたが、次に「地理」「肌理(きり)」(はだのきめ)などのように、ひろく事物のすじ目も意味するようになる。それが抽象化され、秩序、理法、道理などの意に使われるようになった。
『墨子』には、理が道徳的規範の意で使われた。『荘子』では自然の理法としての理があらわれ、天と結びついて天理となったり、「道」と並列的に使われ、道が包括的概念であるのに対し、理は個別的概念である。
理気説 (りきせつ、Lĭ qi shuō)では、理は事物の法則性をあらわす概念で、気も事物を形づくり事物に生命を与えるガス状の物質と考えらた。 程頤は、気の現象する世界の奥に、それを秩序づける存在を措定して、これを理と呼び、この理を究明すること(窮理(きゅうり))が学問の要諦だとした。
朱熹によれば、理は形而上のもの、気は形而下のものであってまったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。また、気が運動性をもち、理は無為であり気の運動に乗って秩序を与えるとする。
王陽明は、「理は気の条理、気は理の運用」という理気一体観を表明している。
仏教の理
avakaza: naya: niiti: nyaayai (skt)
道理・義理・条理を意味し、治める、正すなどの意味で用いる。漢訳仏典では、思想的に重要な概念を表す意味で理という言葉は用いられない。
しかし、中国の仏教者たちは、東晋の支遁(314年-366年)をはじめとし、漢訳仏典を解釈し、さらに独自の教理体系を築いていく際に、この中国伝統思想の重要な概念語を重用した。その場合、理は普遍的・抽象的な真理を指すことが多く、特に事(個別的具体的な事象)と対になると、現象の背後にあって現象を現象たらしめている理法を意味する。
特に唐代に盛んであった華厳(けごん)教学では、理は最も重要な術語となる。理は事と対比的に使われ、理事無礙(むげ) は、普遍的な理法と個別的な事象とが一体不可分で、矛盾なく調和していることなどといわれ、教学の特徴を示す言葉となっている。
仏教では、現実世界をどのように認識するかということがもっとも大切なことであり、その現実を現実のままに認識することを事と言い、それを理論づけたり言葉に乗せることを理と言う。その意味で、仏典はすべて理であり、釈迦がさとった内容は事である。その意味で、「不立文字」は事の内容は言葉にできないことを説明している。
- 顕了説法とは、広大なる智慧の有情にして已に善く聖教の理(naya)に悟入せる者に於いて、其の為に広大にして甚深なる道理処法を開示するを謂う。
- 菩薩は無戯論の理(naya)に乗御して極真智に依って正加行を修す。
- 聖者が羊などになるという理(avakaaza)は必ずなし。
- 迦湿弥羅国の毘婆沙師の阿毘達磨を議することは、理(niiti)は善く成立せり。
- 是の如き一切の理(nyaaya)し且らく然るべし。