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むがとくう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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無我と空

 釈尊の教えをくわしく読むと、縁起であるから「諸法無我」であると説明している。つまり、すべての存在は因と縁によって存在しているのであり、因と縁によって存在している限り「」と呼べるものは存在しないというのである。

 それに対して、「」は、存在が在るとか無いとかを固定するものではない。つまり、存在の有無の二辺の中道を説くわけである。これを説いたのが龍樹菩薩であって、龍樹菩薩は釈尊が説かなかった有無二辺の中道を説くことで空を説いたわけである。
 では、釈尊は空を説かなかったのかと言うと、実は釈尊は空を禅定によって獲得するように、指導した。だから、空も有無二辺の中道も説かないが、行として修行者をそちらに向けようとしているのであり、修行者にのみ説いているのである。
 それを説明しているのが、『サンユッタ・ニカーヤ』にある。

 カッチャーヤナよ。あるがままに正しい智慧をもって、世間における集まり起こることを見るものには、世間において「無いこと」はない。
 カッチャーヤナよ。あるがままに正しい智慧をもって、世間における滅を見るものには、世間において「在ること」はない。〔サンユッタ・ニカーヤ 12,15〕

 このように、極めてまれではあるが、「一切は在る」という極端(定見)にも、「一切は無い」という極端(定見)にも近づくことなく、中道によって観察するのが「正見」であると、釈尊は説いているのである。

 これに対して、龍樹菩薩は、釈尊のこの教えを、みずからの智慧で経典からくみ取った。有無二辺の中道をみずからの論理として、さらにそこから出てくる「空」を自らの法として説いたのである。

 若有不空法 則応有空法 実無不空法 何得有空法
 もしも非空である何ものかが存在するとするならば、空である何ものか(が存在することになるであろう)。
(しかし)非空である何ものも存在しない。どうして、空であるものが存在するであろうか。〔中論頌 13, 8〕

 空を理解する前に、このように有無二辺の中道を理解しなくてはならない。有無二辺の中道は、想いや考えなどにおいて機能する論理である。この中道のはたらく領域は想いや考えということになる。この想いや考えを持たない人間はいない。そして、その大半は「言葉」として発せられるのである。よって、この中道は「想い」だけでなく「言葉」にも適用される論理である。  この想いや言葉のはたらく領域は、釈尊の言葉でいえば「戯論」(prapañca)である。

 ちなみに、龍樹の説く「空」を、しばしば「101」の10の位にある「0」を指すと説明する。10の位には数字がないことを明示するための「0」であって、そのことが「空 śūnya」であり、その「0」を「空性 śūnyatā」と呼ぶのである。