ごじょく
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
五濁
pañca kaṣāya (S)
仏教の世界観を表わす言葉で、世の中のけがれゆくさまを5つに分類したものである。順番は各経典で異なるが、掲げられているものは同じである。
- 人間の寿命が短くなり(命濁)
- 時代的な環境が腐敗し(劫濁)
- 煩悩が盛んとなり(煩悩濁)
- 思想が混乱をきたし(見濁)
- 人間の肉体,精神とも貧相,無気力になる(衆生濁)
という5つの段階を経て世の中が衰微すると考えられた。
- 釈迦牟尼仏、よく甚難希有の事をなして、よく娑婆国土の五濁悪世、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁のなかにおいて、阿耨多羅三藐三菩提を得て、もろもろの衆生のために、この一切世間難信の法を説きたまふ 〔阿弥陀経 p.128〕
濁とは、存在が曖昧になること。「濁」ということの根本は、みずからにとって自分が曖昧になるということである。
善導の解釈
1.劫濁
この悪は、単なる善悪の悪ではなく、人間として嫌悪すべきことである。人間として嫌悪すべき在り方が増える。他人の気持ちを受け入れるとか、他の存在を受け止める心が薄れ、思いどおりの世界を想像して、その中で生きるという方向に人間が進んでいる。それが時代の濁りであり、諸悪が加増している姿である。
2.見濁
- 「見濁」といふは、自身の衆悪は総じて変じて善となし、他の上に非なきをば見て是ならずとなす。 〔観経疏 p.392〕
自分の過ちはまちがっていないと押し通し、他人に非がないのを見ながらそれは正しくないと言う。
見濁の見は、ものの見方という意味である。だから考え方、思想を表すが、「見濁」とは、具体的には「他人の考えを聞く心が失われていく」こととして現れる。そこに思想の混乱が生ずる。自分と考えの違うものは、暴力をもって抹殺するというテロリズムの風潮がそこから現れてくる。
3.煩悩濁
「悪性難親」とは、人間不信である。人間が信じられなくなると、自分で守り自分で主張しなくてはならなくなり、貪瞋をもって自分を鎧う。単に煩悩が強くなるのではなく、根底に人間不信があると押さえて注意すべきである。
4.衆生濁
- 「衆生濁」といふは、劫もしはじめて成ずる時は衆生純善なり、劫もし末なる時は衆生の十悪いよいよ盛りなり。 〔観経疏 p.392〕
歴史の初めには純善であった衆生が、その純善さを失う。純善とは、ただ人が好いのではなく、自分が生きているということに対する深い喜びがある。それによって自らの命を大事にし、他人の命を大事にする。他人の心をつねに大事にするという姿勢になる。
衆生濁とは、人間性を喪失することである。人間が傷みとか悲しみとか、いたわりとか、それらを全て失っていくことが衆生濁である。
5.命濁
- 「命濁」といふは、前の見・悩の二濁によりて多く殺害を行じて、慈しみ恩養することなし。すでに断命の苦因を行じ、長年の果を受けんと欲するも、なにによりてか得べき。 〔観経疏 pp.392-3〕
命をいとおしむ、我が身に受けている命に深い喜びを見いだす、そういうものがなくなり、自他の命を粗末に扱い、軽んずるようになる。
早死にするようなことばかりしながら、長生きしたいと思っている。不幸になるようなことばかりしながら、幸福になりたいと思っている。願っていることと、実際にしていることが食い違っている。
人類は、幸せを求めて、より豊かな、より便利な、より幸せな社会を築こうと努力してきた。現実にはその文化が環境破壊などを通し、人類そのものの存在を危うくしている。幸せになろうとして、逆に存在を危うくするようなことばかりをしてきた。
命濁にはもう一つ、つねに疎外感を持って生きているという意味がある。現にしていながら、心はそこから逃げ出している。心は逃げ出しているが、やはりせずにいられない。そういう行為と心との食い違いである。自分を失っていく姿を命濁と押さえている。
五濁悪時とは、自分を失っていくような在り方しかできない時代社会のことである。生活を重ねることで自分の存在に確かさが出てくるのではなくて、逆にストレスがたまり、疎外感が深まる。しかもそれが個人の努力では超えられないような、時代全体、社会全体の仕組みにまでなってしまっている。それを悪時と呼び、「五濁悪時」と成句になっている。