だいじょうとんぎょう
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大乗頓教
頓教とは、修行の階位を立てないで、「一念不生即ち佛」と悟る教えをいう。諸法の差別尽きて、離言・絶慮・不可説の世界を示す。
『維摩経』に、不二の門に入る方法を三十二人の菩薩が説くが、これは言説によって不二を説くから頓教ではない。その次に維摩が一黙によって不二を示したが、これは離言説であるので頓教であるという。
あるいは『楞伽経』に、佛は悟りを得た夜から涅槃の夜まで、一字も説かないと説いているが、この不説の教えは頓教であるという。
また、『涅槃経』にも、如来常に説法せずと知る、これが菩薩の多聞であるというている。このように「離言説の教」が頓教である。頓教を何にあてるかというに、一つの経典ですべて頓教にあたるものはない。
澄観(738‐839)は、頓教を禅宗にあてた。彼の時代には、すでに禅宗が盛んになっており、不立文字、見性成佛の教えを説いていたから、禅宗を頓教にあてるのはよいが、しかし、法蔵(643‐712)の時代には、まだ禅宗はそれほど盛んではなかった。五祖弘忍の弟子の北宗禅の神秀(606‐706)や南宗禅の慧能(637‐713)がようやく法蔵と同時代である。彼らによって禅宗は盛んになっていく。そのために法蔵の『華厳五教章』では、頓教に禅宗をあててはいない。ただ、彼以前の諸家の教判において、頓教が立てられているし、理論的にも「無言説」の教えは立てられうるので、ここに頓教を立てたのであろう。