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だいじょうしゅうきょう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

大乗終教

 華厳の教判である「五教十宗」の一つ。大乗の終極の教え。

 漸教の中の終教であるから、その後に大乗窮極の教えとしての大乗頓教円教がある。終教は、始教よりも深い教えという意味である。
 始教を区別して理解するのに対し、終教は法の相互の間の連続を見る。たとえば、人間が悪人から善人に変わる場合、そこに悪から善へのつながりがなければならない。すなわち善と悪とは、一面では隔絶しているが、同時に、他面においてはつながっていると見なければならない。善と悪との連続を認めないと、悪人が善人に変わり、迷っている人が悟ることは不可能になるからである。すなわち、善と悪、迷いと悟り、生死涅槃などを区別する立場から法を説くのが「始教」であるのに対し、両者の連続の面、相即の面を重視して法を説くのが「終教」である。
 故に終教は、煩悩即菩提や、迷悟不二を説く『維摩経』のように、即・不二を説くことがその特色となる。あるいは「如来蔵」を説く経典のように、最初から「悟り」を前提とする教えとなる。佛性や如来蔵を前提とすると、それと現実の凡夫の迷い・煩悩とが、いかに相即するかという問題が起り、「不二・即」の思想を考えざるをえない。如来蔵は「在編修の法身」といわれ、佛性が煩悩に取り巻かれている時をいうのである。如来蔵の教理は『勝鬘経』や『楞伽経』に説かれ、さらに『宝性論』や『大乗起信論』に体系的に示されている。