「さんげだつもん」の版間の差分
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悟りに至る三つの門戸のこと。[[くう|空]]・[[むそう|無相]]・[[むがん|無願]]の三つの[[さんまい|三昧]]をいう。これから「三三昧」とも言う。 | 悟りに至る三つの門戸のこと。[[くう|空]]・[[むそう|無相]]・[[むがん|無願]]の三つの[[さんまい|三昧]]をいう。これから「三三昧」とも言う。 | ||
− | # | + | # [[くうざんまい|空三昧]]とは、すべて存在、あるいは存在現象は空であると観ずること |
# 無相三昧とは、空であるゆえ種々相はない、[[しゃべつ|差別]]の相がないと観ずること | # 無相三昧とは、空であるゆえ種々相はない、[[しゃべつ|差別]]の相がないと観ずること | ||
# 無願三昧とは、無相なるゆえ願求すべき欲望の対象でないと観ずること | # 無願三昧とは、無相なるゆえ願求すべき欲望の対象でないと観ずること | ||
+ | 「無願三昧」は「無作三昧」とも言われる。無漏の三昧なので『維摩経』などではこう言われる。 | ||
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:問うて曰く、三解脱門に入らば、則ち[[ねはん|涅槃]]に到る。今、云何が空・無相・無作を以て、能く[[しょうもん|声聞]]・[[びゃくしぶつ|辟支仏]]地を過ぐるや。答えて曰く、方便力無きが故に、三解脱門に入りて、直に涅槃を取るなり。若し方便力有れば、三解脱門に住して涅槃を見るも、[[じひ|慈悲]]心を以ての故に、能く心を転じて還起す。(後略) 〔[[だいちどろん|大智度論]]巻36 T25-323a〕 | :問うて曰く、三解脱門に入らば、則ち[[ねはん|涅槃]]に到る。今、云何が空・無相・無作を以て、能く[[しょうもん|声聞]]・[[びゃくしぶつ|辟支仏]]地を過ぐるや。答えて曰く、方便力無きが故に、三解脱門に入りて、直に涅槃を取るなり。若し方便力有れば、三解脱門に住して涅槃を見るも、[[じひ|慈悲]]心を以ての故に、能く心を転じて還起す。(後略) 〔[[だいちどろん|大智度論]]巻36 T25-323a〕 | ||
なお、三三昧は[[うろ|有漏]]([[ぼんのう|煩悩]]がある状態)のものと、[[むろ|無漏]](煩悩を断じる[[ちえ|智慧]]を発得する状態)のものとがあるが、解脱門(解脱にいたる門戸)というときは、後者の無漏の三三昧をいう。 | なお、三三昧は[[うろ|有漏]]([[ぼんのう|煩悩]]がある状態)のものと、[[むろ|無漏]](煩悩を断じる[[ちえ|智慧]]を発得する状態)のものとがあるが、解脱門(解脱にいたる門戸)というときは、後者の無漏の三三昧をいう。 |
2022年9月9日 (金) 09:51時点における最新版
三解脱門
悟りに至る三つの門戸のこと。空・無相・無願の三つの三昧をいう。これから「三三昧」とも言う。
「無願三昧」は「無作三昧」とも言われる。無漏の三昧なので『維摩経』などではこう言われる。
- 問うて曰く、三解脱門に入らば、則ち涅槃に到る。今、云何が空・無相・無作を以て、能く声聞・辟支仏地を過ぐるや。答えて曰く、方便力無きが故に、三解脱門に入りて、直に涅槃を取るなり。若し方便力有れば、三解脱門に住して涅槃を見るも、慈悲心を以ての故に、能く心を転じて還起す。(後略) 〔大智度論巻36 T25-323a〕
なお、三三昧は有漏(煩悩がある状態)のものと、無漏(煩悩を断じる智慧を発得する状態)のものとがあるが、解脱門(解脱にいたる門戸)というときは、後者の無漏の三三昧をいう。