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+ | 釈尊の臨終のことばは | ||
+ | つつしんで懈怠することなかれ。 | ||
+ | であったとされている。<br> | ||
+ | 〈唯識〉では、20随煩悩の一つである。〔成唯識論、T31.0033b〕 | ||
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+ | 冥想の過程の於ける6種の欠陥の一つ。〔広釈菩提心論2、T32.0567b〕 | ||
世の厭はしきことは、すべて露ばかり心もとまらずなりにて侍(はべ)れば、聖(ひじり)にならむに、懈怠すべうも侍らず。 〔紫式部日記〕 | 世の厭はしきことは、すべて露ばかり心もとまらずなりにて侍(はべ)れば、聖(ひじり)にならむに、懈怠すべうも侍らず。 〔紫式部日記〕 | ||
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+ | 世間のなぐさみ囲碁将棋などして、善事をおこたるはみな懈怠なり。すべて善事をおこたるを懈怠と云ふ。〔香月〕 | ||
+ | 善事に於て進まずおこたる煩悩を懈怠と云ふ。そこで悪事に進むのはみな怠と云ふなり。〔香月〕 | ||
+ | 憶念祢名のいさみなき人のこと。〔円乗〕 | ||
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漢語の「懈怠('''かいたい''')」については、おこたる、なまけるの意味であって、中国古典の『韓非子』(八姦)、『呂氏春秋』(音律)、『呉子』(論将)、『後漢書』(馬皇后伝)などに用例が見えている。 | 漢語の「懈怠('''かいたい''')」については、おこたる、なまけるの意味であって、中国古典の『韓非子』(八姦)、『呂氏春秋』(音律)、『呉子』(論将)、『後漢書』(馬皇后伝)などに用例が見えている。 |
2023年2月17日 (金) 16:15時点における版
懈怠
kausīdya (S)
- 「けたい」と読むことは少ないことに注意。
悪を断ちきり、善を修する努力を尽くしていないことをいう。アビダルマ(阿毘達磨)における五位七十五法の大煩悩地法にあげる六つの煩悩の一つ。
『倶舎論』(4)に
心が積極果敢でないこと
とあるのがそれである。また、唯識の随煩悩のうち大随惑とされる八つの煩悩の一つ〔唯識論(6)〕。
釈尊の臨終のことばは
つつしんで懈怠することなかれ。
であったとされている。
〈唯識〉では、20随煩悩の一つである。〔成唯識論、T31.0033b〕
冥想の過程の於ける6種の欠陥の一つ。〔広釈菩提心論2、T32.0567b〕
世の厭はしきことは、すべて露ばかり心もとまらずなりにて侍(はべ)れば、聖(ひじり)にならむに、懈怠すべうも侍らず。 〔紫式部日記〕
世間のなぐさみ囲碁将棋などして、善事をおこたるはみな懈怠なり。すべて善事をおこたるを懈怠と云ふ。〔香月〕 善事に於て進まずおこたる煩悩を懈怠と云ふ。そこで悪事に進むのはみな怠と云ふなり。〔香月〕 憶念祢名のいさみなき人のこと。〔円乗〕
漢語の「懈怠(かいたい)」については、おこたる、なまけるの意味であって、中国古典の『韓非子』(八姦)、『呂氏春秋』(音律)、『呉子』(論将)、『後漢書』(馬皇后伝)などに用例が見えている。