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− | + | 仏が因位のときに修行した様々なことは「華」と喩えられ、この華によって仏果が荘厳されるから「華厳」と言うのである。又、仏となっての徳は華のようであり、この華によって[[ほっしん|法身]]が荘厳されるから「華厳」と言うのである。以上が中国での解釈である。<br> | |
− | + | サンスクリットの意味は「仏の飾りと名づけられる広大な経」という意味で、上記のような解釈はしない。 | |
− | + | 華厳経は、元々は現在の形のような大部の経典ではなく、小さな経典として独立していたが、3世紀頃に中央アジアでまとめられて、現在の形に近いものになったと考えられている。そのうち数点はサンスクリット本のまま残っている。<br> | |
− | + | 漢訳されたものは、60巻本〔六十華厳〕と80巻本〔八十華厳〕とであり、チベットにも完訳されたものが残っている。<br> | |
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*六十華厳 東晋 [[ぶっだばだら|仏駄跋陀羅]]訳 [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=0278_ 大正蔵 9, p.395-] | *六十華厳 東晋 [[ぶっだばだら|仏駄跋陀羅]]訳 [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=0278_ 大正蔵 9, p.395-] | ||
*八十華厳 唐 [[じっしゃなんだ|實叉難陀]] 訳 [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=0278_ 〃 10, p.1-] | *八十華厳 唐 [[じっしゃなんだ|實叉難陀]] 訳 [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=0278_ 〃 10, p.1-] | ||
− | *四十華厳 唐 [[はんにゃ|般若]] 訳 [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=0293_ 〃 10, p.661-] | + | *四十華厳 唐 [[はんにゃ|般若]] 訳 [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=0293_ 〃 10, p.661-]<br> 四十華厳は、上記の二種の『華厳経』の末尾にあって、全体の三分の一弱を占める大章「入法界品」だけの新訳である。四十華厳と略称されるが、『華厳経』の完訳ではない。 |
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− | + | このうち、もっとも古い章は、おそらく「十地品」であり、1-2世紀頃に成立したと考えられている。ここでは、[[ぼさつ|菩薩]]の[[しゅぎょう|修行]]の段階を説いており、[[だいじょうぶっきょう|大乗仏教]]の修行法を体系的にまとめ上げたものと見られる。<br> | |
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+ | その根本的な特徴は、[[じじむげ|事事無礙]]の[[ほっかいえんぎ|法界縁起]]に基づいているということである。すなわち、'''究極の真理の立場から見るならば、一切の事象が互いに連関し合って成立していて、とどこおりがない'''ということである。この立場から菩薩行の実践を説いている。菩薩の修行には自利と利他との二つの方面があるが、菩薩にとっては他の人々を救う(衆生済度)ということが、自利であるから、自利即利他である。 | ||
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+ | 『華厳経』は、[[くやく|旧訳]]でいえば7処8会34品、新訳では7処9会39品から成り立っている。7処8会というのは、説法の場所とその会座の数である。34品とは34章と言うことと同じである。<br> | ||
+ | # 寂滅道場会 | ||
+ | # 普光法堂会 ここまで地上の会座 | ||
+ | # [[とうりてん|忉利天]]会 | ||
+ | # [[やまてん|夜摩天]]宮会 | ||
+ | # [[とそつてん|兜率天]]宮会 | ||
+ | # 他化自在天宮会 これらは天上の会座 | ||
+ | # 普光法堂会 | ||
+ | # 逝多林会([[ぎおんしょうじゃ|祇園精舎]]) ふたたび地上の会座 ここに入法界品が説かれる。 | ||
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+ | ===訳経史=== | ||
+ | 大本『華厳経』のサンスクリット原典は、遅くとも、支法領がこれを入手した頃、即ち400年頃には成立していたと思われる。その原典はインドにおいて編纂されたというよりも、中央アジアにおいて、それまで単独に伝えられていた同種の経典を選び、いくつかの章を書き足して集成したという可能性もある。<br> | ||
+ | 現存の大本『華厳経』を構成している章のかなりの数のものが早くから単独にインドや中央アジアにおいて行なわれていたことは、『六十華厳」の「名号品」「浄行品」「十住品」「十地品」「性起品」「離世間品」「入法界品」、『八十華厳』『蔵訳華厳』にある「十定品」などのうちの一品ないし数品に対応する諸経典が2世紀後半の後漢代以来次々と漢訳されていたという事実から確かめられる。「入法界品」に相当する『ガンダヴューハ』(Gaṇḍavyūha)、「十地品」に相当する『十地経』(Daśabhūmika-sūtra)、「性起品」に相当する『如来興顕経」などのサンスクリット原典の成立、流布は4世紀あるいは3世紀にまで遡ると推定されている。『ガンダヴューハ』はナーガールジュナ(龍樹、150-250年頃)に帰せられる『大智度論』に数回言及、引用され、『十地経』にはナーガールジュナ作といわれる注釈『十住毘婆沙論』があるから、この両経の成立は200年頃に遡り得るが、『大智度論』および『十住毘婆沙論」のナーガールジュナヘの帰属はなお決定的でないから、速断はできない。しかし『十地経』の説く菩薩の十地の名称はナーガールジュナの『宝行王正論』に誤りなく現れるから、ナーガールジュナが『十地経』を知っていた可能性は大きい。 |
2023年3月6日 (月) 12:53時点における版
華厳経
大方広仏華厳経の略。Buddhāvataṃsaka-nāma-mahāvaipulya-sūtra बुद्धावतँसकनाममहावैपुल्यसूत्र (skt.)
大方広とは、証すべき「法」のこと、仏とはそれを説いた人のことである。華厳とは、この仏を喩えて言ったものである。
仏が因位のときに修行した様々なことは「華」と喩えられ、この華によって仏果が荘厳されるから「華厳」と言うのである。又、仏となっての徳は華のようであり、この華によって法身が荘厳されるから「華厳」と言うのである。以上が中国での解釈である。
サンスクリットの意味は「仏の飾りと名づけられる広大な経」という意味で、上記のような解釈はしない。
華厳経は、元々は現在の形のような大部の経典ではなく、小さな経典として独立していたが、3世紀頃に中央アジアでまとめられて、現在の形に近いものになったと考えられている。そのうち数点はサンスクリット本のまま残っている。
漢訳されたものは、60巻本〔六十華厳〕と80巻本〔八十華厳〕とであり、チベットにも完訳されたものが残っている。
漢訳
- 六十華厳 東晋 仏駄跋陀羅訳 大正蔵 9, p.395-
- 八十華厳 唐 實叉難陀 訳 〃 10, p.1-
- 四十華厳 唐 般若 訳 〃 10, p.661-
四十華厳は、上記の二種の『華厳経』の末尾にあって、全体の三分の一弱を占める大章「入法界品」だけの新訳である。四十華厳と略称されるが、『華厳経』の完訳ではない。
このうち、もっとも古い章は、おそらく「十地品」であり、1-2世紀頃に成立したと考えられている。ここでは、菩薩の修行の段階を説いており、大乗仏教の修行法を体系的にまとめ上げたものと見られる。
内容
仏陀のさとりをそのままあらわしたものである、と言われている。そのために舎利弗や目連のようなすぐれた弟子でさえも、何も理解できなかったといわれる。それほどにこの経典は複雑であり、また茫洋としてつかみどころがない。しかしはっきり分からないまでも心して読んでいくうちに、なにか途方もない大きな、大海原のような仏陀のさとりが、ひたひたと我々の心にも打ち寄せてくるのを感ずる。
その根本的な特徴は、事事無礙の法界縁起に基づいているということである。すなわち、究極の真理の立場から見るならば、一切の事象が互いに連関し合って成立していて、とどこおりがないということである。この立場から菩薩行の実践を説いている。菩薩の修行には自利と利他との二つの方面があるが、菩薩にとっては他の人々を救う(衆生済度)ということが、自利であるから、自利即利他である。
『華厳経』は、旧訳でいえば7処8会34品、新訳では7処9会39品から成り立っている。7処8会というのは、説法の場所とその会座の数である。34品とは34章と言うことと同じである。
訳経史
大本『華厳経』のサンスクリット原典は、遅くとも、支法領がこれを入手した頃、即ち400年頃には成立していたと思われる。その原典はインドにおいて編纂されたというよりも、中央アジアにおいて、それまで単独に伝えられていた同種の経典を選び、いくつかの章を書き足して集成したという可能性もある。
現存の大本『華厳経』を構成している章のかなりの数のものが早くから単独にインドや中央アジアにおいて行なわれていたことは、『六十華厳」の「名号品」「浄行品」「十住品」「十地品」「性起品」「離世間品」「入法界品」、『八十華厳』『蔵訳華厳』にある「十定品」などのうちの一品ないし数品に対応する諸経典が2世紀後半の後漢代以来次々と漢訳されていたという事実から確かめられる。「入法界品」に相当する『ガンダヴューハ』(Gaṇḍavyūha)、「十地品」に相当する『十地経』(Daśabhūmika-sūtra)、「性起品」に相当する『如来興顕経」などのサンスクリット原典の成立、流布は4世紀あるいは3世紀にまで遡ると推定されている。『ガンダヴューハ』はナーガールジュナ(龍樹、150-250年頃)に帰せられる『大智度論』に数回言及、引用され、『十地経』にはナーガールジュナ作といわれる注釈『十住毘婆沙論』があるから、この両経の成立は200年頃に遡り得るが、『大智度論』および『十住毘婆沙論」のナーガールジュナヘの帰属はなお決定的でないから、速断はできない。しかし『十地経』の説く菩薩の十地の名称はナーガールジュナの『宝行王正論』に誤りなく現れるから、ナーガールジュナが『十地経』を知っていた可能性は大きい。