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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(曇鸞)
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(tan-luan) (476年-542年(不明確))
 
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五台山の近く雁門(現在の[[ちゅうごく|中国]]、山西省代県)の生まれ。生没年は不明だが、おおよそ北魏後半から[[ほくせい|北斉]]時代の人と思われる。浄土五祖の第一、真宗七高僧の第三。<br>
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五台山の近く雁門(現在の[[ちゅうごく|中国]]、山西省代県)の生まれ。生没年は不明だが、おおよそ[[ほくぎ|北魏]]後半から[[ほくせい|北斉]]時代の人と思われる。浄土五祖の第一、真宗七高僧の第三。<br>
 
出家して、龍樹系の四論(''[[ちゅうろん|中論]]''、''[[じゅうにもんろん|十二門論]]''、''[[ちどろん|智度論]]''、''[[ひゃくろん|百論]]'')や''[[ねはんぎょう|涅槃経]]''の仏性義を学んだ。<br>ところが『大集経』(だいじっきょう)の注釈の最中に病に倒れ、不老長寿の術を茅山の陶弘景について学び「仙経」を得て帰る途中、洛陽で[[ぼだいるし|菩提流支]](ぼだいるし)に出会い、仏教にこそ不死の教えあると諭され、''[[かんむりょうじゅきょう|観無量寿経]]''を授けられた。そこで、'''曇鸞'''は「仙経」を焼き捨てて、浄土教に入り研鑚に勤め、并州の'''大巌寺'''に住し、後に石壁の'''玄中寺'''に入り、さらに汾州平遥山の'''遥山寺'''に移って没した。勅によって汾州西秦陵の文谷に葬られた。
 
出家して、龍樹系の四論(''[[ちゅうろん|中論]]''、''[[じゅうにもんろん|十二門論]]''、''[[ちどろん|智度論]]''、''[[ひゃくろん|百論]]'')や''[[ねはんぎょう|涅槃経]]''の仏性義を学んだ。<br>ところが『大集経』(だいじっきょう)の注釈の最中に病に倒れ、不老長寿の術を茅山の陶弘景について学び「仙経」を得て帰る途中、洛陽で[[ぼだいるし|菩提流支]](ぼだいるし)に出会い、仏教にこそ不死の教えあると諭され、''[[かんむりょうじゅきょう|観無量寿経]]''を授けられた。そこで、'''曇鸞'''は「仙経」を焼き捨てて、浄土教に入り研鑚に勤め、并州の'''大巌寺'''に住し、後に石壁の'''玄中寺'''に入り、さらに汾州平遥山の'''遥山寺'''に移って没した。勅によって汾州西秦陵の文谷に葬られた。
  

2010年7月16日 (金) 10:42時点における版

曇鸞

(tan-luan) (476年-542年(不明確))

五台山の近く雁門(現在の中国、山西省代県)の生まれ。生没年は不明だが、おおよそ北魏後半から北斉時代の人と思われる。浄土五祖の第一、真宗七高僧の第三。
出家して、龍樹系の四論(中論十二門論智度論百論)や涅槃経の仏性義を学んだ。
ところが『大集経』(だいじっきょう)の注釈の最中に病に倒れ、不老長寿の術を茅山の陶弘景について学び「仙経」を得て帰る途中、洛陽で菩提流支(ぼだいるし)に出会い、仏教にこそ不死の教えあると諭され、観無量寿経を授けられた。そこで、曇鸞は「仙経」を焼き捨てて、浄土教に入り研鑚に勤め、并州の大巌寺に住し、後に石壁の玄中寺に入り、さらに汾州平遥山の遥山寺に移って没した。勅によって汾州西秦陵の文谷に葬られた。

著作

  • 論註 浄土論註往生論註とも呼ぶ。
    正式名は無量寿経優婆提舎願生偈註。天親の浄土論(正式名 無量寿経優婆提舎願生偈)の注釈書である。

末法無仏の時代には、他力信心による浄土往生による成仏以外にないと説いたもので、ことに下巻の末尾にすべてが他力のはたらきであると論証していく論調は、さながらドミノ倒しのような明快さである。このため、続く道綽善導、さらに日本の源信法然親鸞はこの論書によって論を進めている。ことに親鸞の教義の根幹を成している。

  • 讃阿弥陀仏偈 阿弥陀仏への讃美の偈文。難行道を捨てて本願力にすべてを任せてしまう易行道につくべきことを宣言し,浄土教義を確立した。