「ほっそうしゅう」の版間の差分
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
細 |
(→法相宗) |
||
(同じ利用者による、間の2版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
=法相宗= | =法相宗= | ||
− | 中国創始の仏教の宗派の一つ。唐代、638年( | + | 中国創始の仏教の宗派の一つ。唐代、638年(貞観19年)中インドから[[げんじょう|玄奘]]が帰国して、ウァスバンドゥ([[せしん|世親]]、Vasubandhu)の『''唯識三十頌''』をダルマパーラ([[ごほう|護法]]、Dharmapāla)が注釈した唯識説を中心にまとめた『''成唯識論''』を訳出編集した。この論を中心に、『''解深密経''』などを所依の経論として、[[げんじょう|玄奘]]の弟子の[[じおんだいし|慈恩大師]][[き|基]](一般に'''窺基'''と呼ぶ)が開いた宗派である。そのため、唯識宗・慈恩宗とも呼ばれる。 |
* 中国の宗派は、日本の宗派とは異なり、学派のようなものであり、寺が固定されたり、教団となったりすることは少ない。 | * 中国の宗派は、日本の宗派とは異なり、学派のようなものであり、寺が固定されたり、教団となったりすることは少ない。 | ||
− | [[ | + | [[ほっそう|法相]](ほっそう)とは、存在のあり方を指す。個々の具体的存在現象のあり方だけでなく、一切の事物の存在現象の区分やその有様も指している。実際には、存在現象そのものに関しては、[[せついっさいうぶ|説一切有部]]などの[[ぶはぶっきょう|部派仏教]]を中心に研究が進められ、その研究の上に、存在現象のあり方を、我々人間がどのように認識しているのか、という研究が進められた。さらに、最終的には一切の存在現象はただ識に過ぎないとする。基は師の玄奘が訳出した『''[[じょうゆいしきろん|成唯識論]]'' 』を注釈し、一切法の相を[[ごいひゃっぽう|五位百法]]に分類し分析的に説明した。<br> |
玄奘と基が唐の高宗の厚い信任を得たことから、法相宗は一世を風靡した。しかし、その教義がインド仏教を直輸入した色彩が濃く、教理体系が繁雑をきわめたこともあり、武周朝(690-704)に[[ほうぞう|法蔵]]の[[けごんしゅう|華厳宗]]が隆盛になるにしたがい、宗派としてはしだいに衰えた。 | 玄奘と基が唐の高宗の厚い信任を得たことから、法相宗は一世を風靡した。しかし、その教義がインド仏教を直輸入した色彩が濃く、教理体系が繁雑をきわめたこともあり、武周朝(690-704)に[[ほうぞう|法蔵]]の[[けごんしゅう|華厳宗]]が隆盛になるにしたがい、宗派としてはしだいに衰えた。 | ||
日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、[[にっとう|入唐]][[ぐほうそう|求法僧]]により数次にわたって伝えられた。 | 日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、[[にっとう|入唐]][[ぐほうそう|求法僧]]により数次にわたって伝えられた。 | ||
− | * | + | *653年(白雉4年) [[どうしょう|道昭]]が入唐留学して玄奘に師事し、帰国後飛鳥[[がんごうじ|元興寺]](がんごうじ)でこれを広めた。 |
− | * | + | *658年(斉明4年) 入唐した'''智通'''や'''智達'''も法相宗を広めた。これらは同系統に属し、平城右京に元興寺が創建されると法相宗も移り、元興寺伝、南伝といわれた。 |
− | * | + | *703年(大宝3年) [[ちほう|智鳳]]、[[ちゆう|智雄]]らが入唐した。 |
− | * | + | *717年(養老元年) 入唐した[[ぎえん|義淵]]の弟子[[げんぼう|玄昉]](げんぼう)も、ともに濮陽の[[ちしゅう|智周]]に師事して法相を修め、帰国後これを広めた。なかでも玄昉は興福寺にあって当宗を興隆し、興福寺法相宗の基をきずき、興福寺伝または北伝といわれる。 |
− | * | + | *8-9世紀には法相宗は隆盛を極め、多くの学僧が輩出した。ことに興福寺では'''賢憬'''(けんけい)、'''修円'''、[[とくいち|徳一]]などが傑出し、修円は同寺内に'''伝法院'''を創建、その一流は伝法院門徒と呼ばれた。 |
元興寺には[[ごみょう|護命]](ごみょう)、明椿などの碩学が出たが、のち元興寺法相宗は興福寺に吸収され、興福寺は法相宗のみを修学する一宗専攻の寺となった。平安末期以降にも[[ぞうしゅん|蔵俊]]、[[じょうけい|貞慶]]、覚憲、信円らが輩出した。 | 元興寺には[[ごみょう|護命]](ごみょう)、明椿などの碩学が出たが、のち元興寺法相宗は興福寺に吸収され、興福寺は法相宗のみを修学する一宗専攻の寺となった。平安末期以降にも[[ぞうしゅん|蔵俊]]、[[じょうけい|貞慶]]、覚憲、信円らが輩出した。 | ||
− | + | 1882年に[[こうふくじ|興福寺]]、[[やくしじ|薬師寺]]、[[ほうりゅうじ|法隆寺]]の3寺が大本山となったが、第2次大戦後、法隆寺は'''聖徳宗'''を名乗って離脱し、興福寺、薬師寺の2本山が統括するにいたった。<br> | |
なお、奈良の法相宗はこのようであるが、京都の[[きよみずでら|清水寺]]も法相宗である。 | なお、奈良の法相宗はこのようであるが、京都の[[きよみずでら|清水寺]]も法相宗である。 |
2017年4月14日 (金) 19:43時点における最新版
法相宗
中国創始の仏教の宗派の一つ。唐代、638年(貞観19年)中インドから玄奘が帰国して、ウァスバンドゥ(世親、Vasubandhu)の『唯識三十頌』をダルマパーラ(護法、Dharmapāla)が注釈した唯識説を中心にまとめた『成唯識論』を訳出編集した。この論を中心に、『解深密経』などを所依の経論として、玄奘の弟子の慈恩大師基(一般に窺基と呼ぶ)が開いた宗派である。そのため、唯識宗・慈恩宗とも呼ばれる。
- 中国の宗派は、日本の宗派とは異なり、学派のようなものであり、寺が固定されたり、教団となったりすることは少ない。
法相(ほっそう)とは、存在のあり方を指す。個々の具体的存在現象のあり方だけでなく、一切の事物の存在現象の区分やその有様も指している。実際には、存在現象そのものに関しては、説一切有部などの部派仏教を中心に研究が進められ、その研究の上に、存在現象のあり方を、我々人間がどのように認識しているのか、という研究が進められた。さらに、最終的には一切の存在現象はただ識に過ぎないとする。基は師の玄奘が訳出した『成唯識論 』を注釈し、一切法の相を五位百法に分類し分析的に説明した。
玄奘と基が唐の高宗の厚い信任を得たことから、法相宗は一世を風靡した。しかし、その教義がインド仏教を直輸入した色彩が濃く、教理体系が繁雑をきわめたこともあり、武周朝(690-704)に法蔵の華厳宗が隆盛になるにしたがい、宗派としてはしだいに衰えた。
日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられた。
- 653年(白雉4年) 道昭が入唐留学して玄奘に師事し、帰国後飛鳥元興寺(がんごうじ)でこれを広めた。
- 658年(斉明4年) 入唐した智通や智達も法相宗を広めた。これらは同系統に属し、平城右京に元興寺が創建されると法相宗も移り、元興寺伝、南伝といわれた。
- 703年(大宝3年) 智鳳、智雄らが入唐した。
- 717年(養老元年) 入唐した義淵の弟子玄昉(げんぼう)も、ともに濮陽の智周に師事して法相を修め、帰国後これを広めた。なかでも玄昉は興福寺にあって当宗を興隆し、興福寺法相宗の基をきずき、興福寺伝または北伝といわれる。
- 8-9世紀には法相宗は隆盛を極め、多くの学僧が輩出した。ことに興福寺では賢憬(けんけい)、修円、徳一などが傑出し、修円は同寺内に伝法院を創建、その一流は伝法院門徒と呼ばれた。
元興寺には護命(ごみょう)、明椿などの碩学が出たが、のち元興寺法相宗は興福寺に吸収され、興福寺は法相宗のみを修学する一宗専攻の寺となった。平安末期以降にも蔵俊、貞慶、覚憲、信円らが輩出した。
1882年に興福寺、薬師寺、法隆寺の3寺が大本山となったが、第2次大戦後、法隆寺は聖徳宗を名乗って離脱し、興福寺、薬師寺の2本山が統括するにいたった。
なお、奈良の法相宗はこのようであるが、京都の清水寺も法相宗である。