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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

 
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=彼岸=
 
=彼岸=
paarimaM पारिमँ、tiiraM तीरँ、paryavasaana पर्यवसान (skt.)
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<big>pārimaṃ</big> पारिमँ、<big>tīraṃ</big> तीरँ、<big>paryavasāna</big> पर्यवसान (skt.)
  
かなたの岸、目指す理想の境地のこと。<br>
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 かなたの岸、目指す理想の境地のこと。<br>
[[ぼんのう|煩悩]]の激流ないし海の「此岸(しがん)」から、修行によってそれを渡り切った向こう岸、つまり[[りんね|輪廻]]を超えた[[ねはん|涅槃]]の境地のこと。<br>
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 [[ぼんのう|煩悩]]の激流ないし海の「此岸(しがん)」から、修行によってそれを渡り切った向こう岸、つまり[[りんね|輪廻]]を超えた[[ねはん|涅槃]]の境地のこと。<br>
わが国では、古くからの習俗と混交して、3月の春分と9月の秋分にそれぞれ7日間行われる「彼岸会(ひがんえ)」のことを指す。
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 わが国では、古くからの習俗と混交して、3月の春分と9月の秋分にそれぞれ7日間行われる「彼岸会(ひがんえ)」のことを指す。
  
なお、[[ぼさつ|菩薩]]の修行徳目であるさまざまな修行の完成である[[はらみつ|波羅蜜]](paaramitaa)は、「[[とうひがん|到彼岸]]」とか「[[ど|度]](渡)」と漢訳されることもある。
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 なお、[[ぼさつ|菩薩]]の修行徳目であるさまざまな修行の完成である[[はらみつ|波羅蜜]](pāramitā)は、「[[とうひがん|到彼岸]]」とか「[[ど|度]](渡)」と漢訳されることもある。
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===誤読===
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 pāraṃ=iti 「彼岸に至ることを目指す行を修する」この言葉は、「pāramitiyām」となるべきであるのに、誤読されて「pāramitāyām」とされ、「pāramitā」が元だとされた。そのため、「到彼岸」と理解されたのである。<br>
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 注意すべきは、原義は「彼岸に至ることを目指す行を修する」ということである。
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===渡り切った態度===
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 彼岸に渡り切ってしまえば、修行などはもはや無用なものとして捨てられる。筏は単なる手立てであって、渡るための手段に過ぎない。<br>
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 釈尊は、世間をことさら粗略に扱うということはないのだが、しかし究極的には世間のことには無関心であった。この無関心のことを漢訳仏典は「'''捨'''」としている。<br>
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 この「捨」は目立たない術語ではあるが、これこそ釈尊の究極の目標、つまり生きていくことに何ら目標を与えない、最大の課題であったと思われる。

2024年8月5日 (月) 13:51時点における最新版

彼岸

pārimaṃ पारिमँ、tīraṃ तीरँ、paryavasāna पर्यवसान (skt.)

 かなたの岸、目指す理想の境地のこと。
 煩悩の激流ないし海の「此岸(しがん)」から、修行によってそれを渡り切った向こう岸、つまり輪廻を超えた涅槃の境地のこと。
 わが国では、古くからの習俗と混交して、3月の春分と9月の秋分にそれぞれ7日間行われる「彼岸会(ひがんえ)」のことを指す。

 なお、菩薩の修行徳目であるさまざまな修行の完成である波羅蜜(pāramitā)は、「到彼岸」とか「(渡)」と漢訳されることもある。

誤読

 pāraṃ=iti 「彼岸に至ることを目指す行を修する」この言葉は、「pāramitiyām」となるべきであるのに、誤読されて「pāramitāyām」とされ、「pāramitā」が元だとされた。そのため、「到彼岸」と理解されたのである。
 注意すべきは、原義は「彼岸に至ることを目指す行を修する」ということである。

渡り切った態度

 彼岸に渡り切ってしまえば、修行などはもはや無用なものとして捨てられる。筏は単なる手立てであって、渡るための手段に過ぎない。
 釈尊は、世間をことさら粗略に扱うということはないのだが、しかし究極的には世間のことには無関心であった。この無関心のことを漢訳仏典は「」としている。
 この「捨」は目立たない術語ではあるが、これこそ釈尊の究極の目標、つまり生きていくことに何ら目標を与えない、最大の課題であったと思われる。