操作

「じょうごう」の版間の差分

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(新しいページ: '=長行= gadya (skt.)  仏教の経典・論書の文体で、韻文()に対して、散文をいう。字句に制限がなく、行数が長いところから''...')
 
(定業)
 
(同じ利用者による、間の1版が非表示)
1行目: 1行目:
 
=長行=
 
=長行=
gadya (skt.)
+
<big>gadya</big> (S)
  
 
 仏教の経典・論書の文体で、韻文([[げ|偈]])に対して、散文をいう。字句に制限がなく、行数が長いところから'''長行'''という。[[りょうがきょう|楞伽経]](1)、[[ゆがしじろん|瑜伽師地論]](81)など比較的後期の仏典に見える語。<br>
 
 仏教の経典・論書の文体で、韻文([[げ|偈]])に対して、散文をいう。字句に制限がなく、行数が長いところから'''長行'''という。[[りょうがきょう|楞伽経]](1)、[[ゆがしじろん|瑜伽師地論]](81)など比較的後期の仏典に見える語。<br>
 
 [[きちぞう|吉蔵]]は[[きょう|経]]・[[ろん|論]]に、長行のみからなるもの、偈のみのもの、偈と長行の混交したものの3種があるという([[ひゃくろんしょ|百論疏]](上))。<br>
 
 [[きちぞう|吉蔵]]は[[きょう|経]]・[[ろん|論]]に、長行のみからなるもの、偈のみのもの、偈と長行の混交したものの3種があるという([[ひゃくろんしょ|百論疏]](上))。<br>
 インドの美文芸(kaavya)の理論でも、美文芸をpadya(韻文体)とgadya(散文体)とmizra(それらの混交)に分ける。
+
 インドの美文芸(kāvya)の理論でも、美文芸をpadya(韻文体)とgadya(散文体)とmiśra(それらの混交)に分ける。
 
:この論の長行の中に、また五念門を修すと言へり    〔[[きょうぎょうしんしょう|教行信証]](行)〕
 
:この論の長行の中に、また五念門を修すと言へり    〔[[きょうぎょうしんしょう|教行信証]](行)〕
 
:如来の説法に二種の趣きあり…浅略趣と言ふは諸経の中の長行・偈頌是れなり、秘密趣とは諸経の中の陀羅尼是れなり    〔性霊集(9)〕
 
:如来の説法に二種の趣きあり…浅略趣と言ふは諸経の中の長行・偈頌是れなり、秘密趣とは諸経の中の陀羅尼是れなり    〔性霊集(9)〕
  
 
=定業=
 
=定業=
niyatakarman (skt.)
+
<big>niyatakarman</big> (S)
 
+
 [[せついっさいうぶ|説一切有部]]の説で、報いを受ける時期が定まっている[[ごう|業]]のこと。「不定業」に対する。その時期については、現世、次の世、第三生以後の3期が区別され、それぞれに対応する業を「順現業」(順現法受業)、「順生業」(順次生受業)、「順後業」(順後次受業)と称し、合わせて「[[さんじごう|三時業]]」という。
+
  
 +
 [[せついっさいうぶ|説一切有部]]の説で、報いを受ける時期が定まっている[[ごう|業]]のこと。「不定業」に対する。その時期については、現世、次の世、第三生以後の3期が区別され、それぞれに対応する業を「順現業」(順現法受業)、「順生業」(順次生受業)、「順後業」(順後次受業)と称し、合わせて「三時業」「三時定業」という。
  
 
=定業(浄土教)=
 
=定業(浄土教)=

2018年10月30日 (火) 05:42時点における最新版

長行

gadya (S)

 仏教の経典・論書の文体で、韻文()に対して、散文をいう。字句に制限がなく、行数が長いところから長行という。楞伽経(1)、瑜伽師地論(81)など比較的後期の仏典に見える語。
 吉蔵に、長行のみからなるもの、偈のみのもの、偈と長行の混交したものの3種があるという(百論疏(上))。
 インドの美文芸(kāvya)の理論でも、美文芸をpadya(韻文体)とgadya(散文体)とmiśra(それらの混交)に分ける。

この論の長行の中に、また五念門を修すと言へり    〔教行信証(行)〕
如来の説法に二種の趣きあり…浅略趣と言ふは諸経の中の長行・偈頌是れなり、秘密趣とは諸経の中の陀羅尼是れなり    〔性霊集(9)〕

定業

niyatakarman (S)

 説一切有部の説で、報いを受ける時期が定まっているのこと。「不定業」に対する。その時期については、現世、次の世、第三生以後の3期が区別され、それぞれに対応する業を「順現業」(順現法受業)、「順生業」(順次生受業)、「順後業」(順後次受業)と称し、合わせて「三時業」「三時定業」という。

定業(浄土教)

 なお、浄土教では、瞑想に入って阿弥陀仏とその世界を観察することを定業という。

定まれる業ありて、これをもて世を背(そむ)きたまはば、浄土に往き登りて    〔上宮聖徳法王帝説〕
いかに定業なりとも、矢一つにて、ものもいはで死ぬる者やある    〔曾我(1.河津)〕