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− | + | 『墨子』には、'''理'''が道徳的規範の意で使われた。『荘子』では'''自然の理法'''としての'''理'''があらわれ、天と結びついて'''天理'''となったり、「道」と並列的に使われ、'''道'''が包括的概念であるのに対し、'''理'''は個別的概念である。 | |
− | + | 理気説 (りきせつ、Lĭ qi shuō)では、'''理'''は事物の法則性をあらわす概念で、'''気'''も事物を形づくり事物に生命を与えるガス状の物質と考えらた。 | |
程頤は、'''気'''の現象する世界の奥に、それを秩序づける存在を措定して、これを'''理'''と呼び、この'''理'''を究明すること(窮理(きゅうり))が学問の要諦だとした。 | 程頤は、'''気'''の現象する世界の奥に、それを秩序づける存在を措定して、これを'''理'''と呼び、この'''理'''を究明すること(窮理(きゅうり))が学問の要諦だとした。 | ||
− | + | 朱熹によれば、'''理'''は形而上のもの、'''気'''は形而下のものであってまったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。また、'''気'''が運動性をもち、'''理'''は無為であり'''気'''の運動に乗って秩序を与えるとする。<br> | |
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− | + | しかし、中国の仏教者たちは、東晋の[[しとん|支遁]](314年-366年)をはじめとし、漢訳仏典を解釈し、さらに独自の教理体系を築いていく際に、この中国伝統思想の重要な概念語を重用した。その場合、'''理'''は普遍的・抽象的な真理を指すことが多く、特に[[じ|事]](個別的具体的な事象)と対になると、現象の背後にあって現象を現象たらしめている'''理法'''を意味する。 | |
− | + | 特に唐代に盛んであった[[けごん|華厳]](けごん)教学では、'''理'''は最も重要な術語となる。'''理'''は'''事'''と対比的に使われ、'''理事無礙'''(むげ) は、普遍的な理法と個別的な事象とが一体不可分で、矛盾なく調和していることなどといわれ、教学の特徴を示す言葉となっている。<br> | |
− | [[ぶっきょう|仏教]]では、現実世界をどのように認識するかということがもっとも大切なことであり、その現実を現実のままに認識することを'''事'''と言い、それを理論づけたり言葉に乗せることを'''理'''と言う。その意味で、'''仏典'''はすべて'''理'''であり、'''釈迦'''がさとった内容は'''事'''である。その意味で、「不立文字」は'''事''' | + | [[ぶっきょう|仏教]]では、現実世界をどのように認識するかということがもっとも大切なことであり、その現実を現実のままに認識することを'''事'''と言い、それを理論づけたり言葉に乗せることを'''理'''と言う。その意味で、'''仏典'''はすべて'''理'''であり、<font color=RED>'''釈迦'''がさとった内容は'''事'''である。その意味で、「不立文字」は'''事'''の内容は言葉にできない</font>ことを説明している。 |
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+ | :顕了説法とは、広大なる智慧の有情にして已に善く聖教の理(naya)に悟入せる者に於いて、其の為に広大にして甚深なる道理処法を開示するを謂う。 | ||
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+ | 『教行信証』化身土巻〔p.421〕に出る。 | ||
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+ | 根本の道理。理念的、普遍的なもの・宇宙をつらぬく真理。<br> | ||
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+ | 『華厳経』自体にはこのことばはないが、華厳教学では重要な術語となっている。 | ||
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+ | : 理とは一切諸法の道理で筋合のこと。<br> 玉のすぢのこと。<br> [[したい|四諦]]の理。 | ||
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+ | 一般的には、[[えんぎ|縁起]]して現象した差別的な事象、現実の事物を'''事'''といい、それと不断に関わってあるとされる普遍的な[[しんり|真理]]、[[びょうどう|平等]]の本体のことを'''理'''という。<br> | ||
+ | さらにくわしくいえば、原理、普遍的真理、道理、抽象、理法、実体、判断力、知識などは'''理の範疇'''であり、事物、出来事、特殊、具体、現象、事柄などは'''事の範疇'''である。<br> | ||
+ | 『倶舎論』巻25では、苦集滅道の[[したい|四諦]]すなわち仏教の真理を'''理'''とし、うつろいやすい、いつわりの現象の相を'''事'''とみなしている。唯識宗では、[[えんじょうじっしょう|円成実性]]の[[しんにょ|真如]]を'''理'''と考え、[[えたきしょう|依他起性]]の[[じほう|事法]]を'''事'''とし、しかもこの2つは不即不離の関係にあるとする。すなわち、理は[[むい|無為]]、事は[[うい|有為]]という区別があるので不即(たがいに別なもの)であり、しかも理は事を事たらしめる根拠であるから不離(たがいに存在するための条件になりあっている)である。しかしながら事と理とが融けあって無礙一体となるとは説いていない。<br> | ||
+ | 『大乗起信論』では、理(真如)が縁に随って事(万法)として現象すると説き、事即理、理即事であると説いている。理と事とが密接な対応関係におかれるようになったのは、おそらくこの『起信論』からではなかろうかと思われる。<br> | ||
+ | 天台宗では,迹門を俗諦の事、本門を真諦の理とし、蔵教を界内の事教、通教を界内の理教、別教を界外の事教、円教を界外の理とし、さらに観には事観と理観、惑には迷事と迷理、懴悔には事懴と理懴とがあるとしている。<br> | ||
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+ | 理と事の問題を最も哲学的に深く追求したのは華厳宗であって理事無礙を説いた。すなわち、理と事とは絶対的に相対立しているからこそ、かえって、理と事とはたがいに融けあって、礙<サエ>ぎることなく円融すると説いた。これは、いわば東洋的弁証法の論理であり、華厳哲学ではさらに理事無礙を超えて、事事無礙を説くにいたった。華厳宗は東洋哲学のなかで最も高度な思弁哲学を完成させ、中国思想、たとえば朱子学などに大きな影響を与えている。<br> | ||
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+ | なお理理無礙という思想も存し、おもに韓国の華厳宗で注目された。 | ||
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+ | 中国における理と事の問題については、道生(355-434)、僧肇(384-414)、謝霊運(385-433)、浄影寺慧遠(523-592)らの思想、ならびに『大乗起信論』とその注釈類、慧命(531-568)の『詳玄賦』、および澄観(738-839)の『演義鈔』をはじめとする種々の華厳典籍などは、特に参考となろう。 | ||
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+ | cf.[[けごんきょうがく|華厳教学]] |
2024年3月18日 (月) 09:27時点における最新版
理
(り、LĬ)
中国哲学の概念。本来、理は文字自身から、璞(あらたま)を磨いて美しい模様を出すことを意味する。そこから「ととのえる」「おさめる」、あるいは「分ける」「すじ目をつける」といった意味が派生する。理はもと動詞として使われたが、次に「地理」「肌理(きり)」(はだのきめ)などのように、ひろく事物のすじ目も意味するようになる。それが抽象化され、秩序、理法、道理などの意に使われるようになった。
『墨子』には、理が道徳的規範の意で使われた。『荘子』では自然の理法としての理があらわれ、天と結びついて天理となったり、「道」と並列的に使われ、道が包括的概念であるのに対し、理は個別的概念である。
理気説 (りきせつ、Lĭ qi shuō)では、理は事物の法則性をあらわす概念で、気も事物を形づくり事物に生命を与えるガス状の物質と考えらた。 程頤は、気の現象する世界の奥に、それを秩序づける存在を措定して、これを理と呼び、この理を究明すること(窮理(きゅうり))が学問の要諦だとした。
朱熹によれば、理は形而上のもの、気は形而下のものであってまったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。また、気が運動性をもち、理は無為であり気の運動に乗って秩序を与えるとする。
王陽明は、「理は気の条理、気は理の運用」という理気一体観を表明している。
仏教の理
avakaśa: naya: nīti: nyāyai (S)
道理・義理・条理を意味し、治める、正すなどの意味で用いる。漢訳仏典では、思想的に重要な概念を表す意味で理という言葉は用いられない。
しかし、中国の仏教者たちは、東晋の支遁(314年-366年)をはじめとし、漢訳仏典を解釈し、さらに独自の教理体系を築いていく際に、この中国伝統思想の重要な概念語を重用した。その場合、理は普遍的・抽象的な真理を指すことが多く、特に事(個別的具体的な事象)と対になると、現象の背後にあって現象を現象たらしめている理法を意味する。
特に唐代に盛んであった華厳(けごん)教学では、理は最も重要な術語となる。理は事と対比的に使われ、理事無礙(むげ) は、普遍的な理法と個別的な事象とが一体不可分で、矛盾なく調和していることなどといわれ、教学の特徴を示す言葉となっている。
仏教では、現実世界をどのように認識するかということがもっとも大切なことであり、その現実を現実のままに認識することを事と言い、それを理論づけたり言葉に乗せることを理と言う。その意味で、仏典はすべて理であり、釈迦がさとった内容は事である。その意味で、「不立文字」は事の内容は言葉にできないことを説明している。
- 顕了説法とは、広大なる智慧の有情にして已に善く聖教の理(naya)に悟入せる者に於いて、其の為に広大にして甚深なる道理処法を開示するを謂う。
- 菩薩は無戯論の理(naya)に乗御して極真智に依って正加行を修す。
- 聖者が羊などになるという理(avakāśa)は必ずなし。
- 迦湿弥羅国の毘婆沙師の阿毘達磨を議することは、理(nīti)は善く成立せり。
- 是の如き一切の理(nyāya)し且らく然るべし。
事実を事実たらしめる理由。事の対。理という語を哲学的意味に用いたのは支遁が最初であった。具体的な用例としては次のとおりである。
ことわり、すじみち
yoga, yukti (S)
依理 yukti-pratisaraṇa
理不称理諸邪悪論 ayoniśo sādya-sarvavāda-anugama
理論
yukti (S)
教の反対語。
不違理 yukty-avirodha
『教行信証』化身土巻〔p.421〕に出る。
真理
根本の道理。理念的、普遍的なもの・宇宙をつらぬく真理。
形式論理からみると、むしろ非合理性である。
現象の背後で、現象を現象たらしめているモノ
『華厳経』自体にはこのことばはないが、華厳教学では重要な術語となっている。
- 理とは一切諸法の道理で筋合のこと。
玉のすぢのこと。
四諦の理。
理と事
一般的には、縁起して現象した差別的な事象、現実の事物を事といい、それと不断に関わってあるとされる普遍的な真理、平等の本体のことを理という。
さらにくわしくいえば、原理、普遍的真理、道理、抽象、理法、実体、判断力、知識などは理の範疇であり、事物、出来事、特殊、具体、現象、事柄などは事の範疇である。
『倶舎論』巻25では、苦集滅道の四諦すなわち仏教の真理を理とし、うつろいやすい、いつわりの現象の相を事とみなしている。唯識宗では、円成実性の真如を理と考え、依他起性の事法を事とし、しかもこの2つは不即不離の関係にあるとする。すなわち、理は無為、事は有為という区別があるので不即(たがいに別なもの)であり、しかも理は事を事たらしめる根拠であるから不離(たがいに存在するための条件になりあっている)である。しかしながら事と理とが融けあって無礙一体となるとは説いていない。
『大乗起信論』では、理(真如)が縁に随って事(万法)として現象すると説き、事即理、理即事であると説いている。理と事とが密接な対応関係におかれるようになったのは、おそらくこの『起信論』からではなかろうかと思われる。
天台宗では,迹門を俗諦の事、本門を真諦の理とし、蔵教を界内の事教、通教を界内の理教、別教を界外の事教、円教を界外の理とし、さらに観には事観と理観、惑には迷事と迷理、懴悔には事懴と理懴とがあるとしている。
理と事の問題を最も哲学的に深く追求したのは華厳宗であって理事無礙を説いた。すなわち、理と事とは絶対的に相対立しているからこそ、かえって、理と事とはたがいに融けあって、礙<サエ>ぎることなく円融すると説いた。これは、いわば東洋的弁証法の論理であり、華厳哲学ではさらに理事無礙を超えて、事事無礙を説くにいたった。華厳宗は東洋哲学のなかで最も高度な思弁哲学を完成させ、中国思想、たとえば朱子学などに大きな影響を与えている。
なお理理無礙という思想も存し、おもに韓国の華厳宗で注目された。
中国における理と事の問題については、道生(355-434)、僧肇(384-414)、謝霊運(385-433)、浄影寺慧遠(523-592)らの思想、ならびに『大乗起信論』とその注釈類、慧命(531-568)の『詳玄賦』、および澄観(738-839)の『演義鈔』をはじめとする種々の華厳典籍などは、特に参考となろう。
cf.華厳教学