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+ | と述べられるように、過去・現在・未来にわたって意識の対象となる一切のものを指した。『倶舎論』(巻1)には、それが | ||
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+ | と、より分析的に規定されている。<br> | ||
+ | しかしながら、一面からいえばこの意味の「法界」以外の十七界のいずれも意識されるものであるから、それらを「法」と名づけることもできる。この点から、諸経論の多くは、一切法を総じて法界としている。<br> | ||
+ | そして、特に大乗においては、「界」(dhātu)を「本性」または「要因」の意味に解して、法界 | ||
+ | と真如とを同義にみなす傾向が顕著になった。たとえば『大般若経』法界品は、法界は不虚妄性であり、不変異性であり、諸法の真如であるとする。また『大宝積経』被甲荘厳会には、「諸法遠離の相を名づけて法界と為す」と説かれている。『摂大乗論』(巻下)などに、法界に遍行・最勝・勝流・無摂・相続不異・無染浄・種種無別・不増減・智自在依止・業自在依止の十義を数えるのは、この常住不変、一味平等の真如の世界としての法界の特徴をくわしく述べたものといえよう。<br> | ||
+ | 上に概観した「法界」の思想は、さらに東アジア漢訳仏教圏において、いっそうの展開をみせる。天台教学の十法界論・一念三千論、華厳教学の五法界論・四法界論・法界縁起論、密教教学の六大無礙縁起論・五智五仏論などがそれである。 | ||
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+ | [[じゅうはっかい|十八界]]の一。意識の対象となるすべてのものごと。『倶舎論』1には[[ごうん|五蘊]]のうち受・想・行の3蘊と[[むひょうしき|無表色]]と[[むいほう|無為法]]とを'''法界'''と名づけ、[[じゅうにしょ|十二処]]の中では法処とする。<br> | ||
存在するかぎりの存在全体をまとめて法界という。[[ゆいしき|唯識]]では、百の法を立てる。 | 存在するかぎりの存在全体をまとめて法界という。[[ゆいしき|唯識]]では、百の法を立てる。 | ||
:略して法界を説くに、若しくは仮、若しくは実にして、八十七の法あり 〔[[ゆがしじろん|瑜伽師地論]]3、T30-293c〕 | :略して法界を説くに、若しくは仮、若しくは実にして、八十七の法あり 〔[[ゆがしじろん|瑜伽師地論]]3、T30-293c〕 | ||
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:或いは声聞の正性離生に入り、或いは菩薩の正性離生に入り一切法の真なる法界に通達し已って亦た能く阿頼耶識に通達す。 〔瑜伽師地論51、T30-581b〕 | :或いは声聞の正性離生に入り、或いは菩薩の正性離生に入り一切法の真なる法界に通達し已って亦た能く阿頼耶識に通達す。 〔瑜伽師地論51、T30-581b〕 | ||
'''唯識'''では、究極の真理を特に[[しんにょ|真如]]という語で表現するが、法界が真如と同義語で用いられることがある。釈尊の説いた教え〈[[ほう|法]]〉を「法界通流の法」という場合の法界もこの意味である。 | '''唯識'''では、究極の真理を特に[[しんにょ|真如]]という語で表現するが、法界が真如と同義語で用いられることがある。釈尊の説いた教え〈[[ほう|法]]〉を「法界通流の法」という場合の法界もこの意味である。 | ||
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+ | ==一法界== | ||
+ | 『賢首義記』によれば、 | ||
+ | : 一法界とは、即ち無二の真心を一法界と為す。此れ算数の一にあらず。謂く、如理虚融、平等不二なるが故に称して一となす。又、下の依言に二義あるに対するが故に、今は体に約して但だ一と云う。依として聖法を生ずるが故に法界と云う。中辺論〔真諦訳『中辺分別論』巻上、相品第一、T31-452c〕に云く、'''法界とは聖法の因を義と為す'''が故に、是の故に法界と説く。聖法此の境に依りて生ず。此の中の因の義は是れ界の義なるが故なり。 | ||
+ | という。この表現を借りれば、『起信論』における「衆生心」は、一切の聖法(成仏の法) の出生する因(dhātu「界」は因の義) であるから「一法界」といわれ、それが心真如だということになる。 | ||
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+ | 華厳教学を基礎づけた第二祖智儼は、「法界」の意味について、「法」には、 | ||
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+ | # 軌則(規範・法則) | ||
+ | の三義があり、「界」には | ||
+ | # 一切法の通性(法の一般的性質) | ||
+ | # 因(原因) | ||
+ | # 分斉(領域・範疇) | ||
+ | の三義があるとした〔『捜玄記』巻5上〕。この語義解釈は、教学の大成者である第三祖法蔵にほぼそのまま受けつがれるが、法界の種類などに関しては、法蔵にいたってはじめて体系的理解が成立した。すなわち法蔵は、『華厳経』(六十華厳)入法界品の「法界」を解釈するに際して、 | ||
+ | # 有為法界 | ||
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+ | # 亦有為亦無為法界 | ||
+ | # 非有為非無為法界 | ||
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+ | の五義があるとし、それらの一つ一つについて二方面に分けて論じた〔『探玄記』巻18〕。 | ||
+ | これは、全体としては従来の諸学派における法界説を独自の観点から収集・整理し、これに無障礙法界を加えたものといえよう。この究極の法界としての無障礙法界は、 | ||
+ | : 亦た二門有り。一には普摂門なり。謂わく、上の四門に於いて一に随って即ち余の一切を摂するが故に。是の故に、善財或いは山海を観、或いは堂宇を見るに、皆法界に入ると名づく。二には円融門なり。謂わく、理を以って事を融ずるが故に、全事に分斉無し。謂わく、微塵は小に非ず、能く十刹を容る。刹海は大に非ず、潜かに一塵に入るなり。事を以て理を融ずるが故に、全理に分無きに非ず。謂わく、一多無礙なれば、或いは一法界と云い、或いは諸法界と云う | ||
+ | と説明されている。 また法蔵は、主客の相対の視点から、同書において別に | ||
+ | # 法法界 | ||
+ | # 人法界 | ||
+ | # 人法倶融法界 | ||
+ | # 人法倶混法界 | ||
+ | # 無障擬法界 | ||
+ | の五法界説も提示している。<br> | ||
+ | のち、第四祖澄観は、新たに | ||
+ | # 事法界 | ||
+ | # 理法界 | ||
+ | # 理事無礙法界 | ||
+ | # 事事無礙法界 | ||
+ | の四法界説をとなえた〔『法界玄鏡』〕。 この説は、初祖杜順に帰せられる『法界観門』の実践思想にみごとに対応することなどから、やがて華厳教学を代表する法界論となった。この四法界説における「法界」は、真如の意味を含みながらも、現在用いられる意味での「世界」と少なくとも表面的にはほとんど同義であると考えられる。 | ||
==経典の語== | ==経典の語== | ||
経典にある言葉を法界と言う場合がある。 | 経典にある言葉を法界と言う場合がある。 | ||
:一切事法を増上する名句文身を説いて名づけて法界と為す 〔瑜伽師地論94、T30-834c〕 | :一切事法を増上する名句文身を説いて名づけて法界と為す 〔瑜伽師地論94、T30-834c〕 |
2024年10月16日 (水) 10:11時点における最新版
法界
dharma-dhātu (S)
法の種類、法の領域、または、法の本性の意。もともと、十八界の一つとして,『大毘婆沙論』(巻71)に
- 諸法が意の為に已と正と当とに了ぜらるる、是れを法界と名づく
と述べられるように、過去・現在・未来にわたって意識の対象となる一切のものを指した。『倶舎論』(巻1)には、それが
- 受想行の蘊と、及び無表色と、三種の無為と、是の如きの七法を処門の中に齢いては立てて法処と為し、界門の中に齢いては立てて法界と為す
と、より分析的に規定されている。
しかしながら、一面からいえばこの意味の「法界」以外の十七界のいずれも意識されるものであるから、それらを「法」と名づけることもできる。この点から、諸経論の多くは、一切法を総じて法界としている。
そして、特に大乗においては、「界」(dhātu)を「本性」または「要因」の意味に解して、法界
と真如とを同義にみなす傾向が顕著になった。たとえば『大般若経』法界品は、法界は不虚妄性であり、不変異性であり、諸法の真如であるとする。また『大宝積経』被甲荘厳会には、「諸法遠離の相を名づけて法界と為す」と説かれている。『摂大乗論』(巻下)などに、法界に遍行・最勝・勝流・無摂・相続不異・無染浄・種種無別・不増減・智自在依止・業自在依止の十義を数えるのは、この常住不変、一味平等の真如の世界としての法界の特徴をくわしく述べたものといえよう。
上に概観した「法界」の思想は、さらに東アジア漢訳仏教圏において、いっそうの展開をみせる。天台教学の十法界論・一念三千論、華厳教学の五法界論・四法界論・法界縁起論、密教教学の六大無礙縁起論・五智五仏論などがそれである。
全存在
十八界の一。意識の対象となるすべてのものごと。『倶舎論』1には五蘊のうち受・想・行の3蘊と無表色と無為法とを法界と名づけ、十二処の中では法処とする。
存在するかぎりの存在全体をまとめて法界という。唯識では、百の法を立てる。
- 略して法界を説くに、若しくは仮、若しくは実にして、八十七の法あり 〔瑜伽師地論3、T30-293c〕
意識の対象
全存在を18種に分ける(十八界)の中の一つの法界。意識の対象のグループ。
全存在を、心・心所・色・不相応行・無為の五位に分ける分類法の中の、無表としての色と心所し不相応行と無為とが法界に相当する。
理としての法界
真理を意味する法界。唯識では、真理を2つに大別する。
縁起の理
- 是の諸の縁起は我の所作に非ず、亦た余の作に非ず。所以は何ん。若し仏が出世するも、若し出世せざるも、法性・法住・法界に安住す。‥‥此の法住に由り彼の法性を以って因と為す。是の故に説いて彼れを名づけて法界と為す。 〔瑜伽師地論10、T30-327c〕
真如の理
- 勝義諦の教とは四聖諦の教と及び真如・実際・法界などの教となり。 〔瑜伽師地論64、T30-654c〕
- 或いは声聞の正性離生に入り、或いは菩薩の正性離生に入り一切法の真なる法界に通達し已って亦た能く阿頼耶識に通達す。 〔瑜伽師地論51、T30-581b〕
唯識では、究極の真理を特に真如という語で表現するが、法界が真如と同義語で用いられることがある。釈尊の説いた教え〈法〉を「法界通流の法」という場合の法界もこの意味である。
一法界
『賢首義記』によれば、
- 一法界とは、即ち無二の真心を一法界と為す。此れ算数の一にあらず。謂く、如理虚融、平等不二なるが故に称して一となす。又、下の依言に二義あるに対するが故に、今は体に約して但だ一と云う。依として聖法を生ずるが故に法界と云う。中辺論〔真諦訳『中辺分別論』巻上、相品第一、T31-452c〕に云く、法界とは聖法の因を義と為すが故に、是の故に法界と説く。聖法此の境に依りて生ず。此の中の因の義は是れ界の義なるが故なり。
という。この表現を借りれば、『起信論』における「衆生心」は、一切の聖法(成仏の法) の出生する因(dhātu「界」は因の義) であるから「一法界」といわれ、それが心真如だということになる。
華厳教学における法界
華厳教学を基礎づけた第二祖智儼は、「法界」の意味について、「法」には、
- 意所知の法(意識されるもの)
- 自性(本質)
- 軌則(規範・法則)
の三義があり、「界」には
- 一切法の通性(法の一般的性質)
- 因(原因)
- 分斉(領域・範疇)
の三義があるとした〔『捜玄記』巻5上〕。この語義解釈は、教学の大成者である第三祖法蔵にほぼそのまま受けつがれるが、法界の種類などに関しては、法蔵にいたってはじめて体系的理解が成立した。すなわち法蔵は、『華厳経』(六十華厳)入法界品の「法界」を解釈するに際して、
- 有為法界
- 無為法界
- 亦有為亦無為法界
- 非有為非無為法界
- 無障礙法界
の五義があるとし、それらの一つ一つについて二方面に分けて論じた〔『探玄記』巻18〕。 これは、全体としては従来の諸学派における法界説を独自の観点から収集・整理し、これに無障礙法界を加えたものといえよう。この究極の法界としての無障礙法界は、
- 亦た二門有り。一には普摂門なり。謂わく、上の四門に於いて一に随って即ち余の一切を摂するが故に。是の故に、善財或いは山海を観、或いは堂宇を見るに、皆法界に入ると名づく。二には円融門なり。謂わく、理を以って事を融ずるが故に、全事に分斉無し。謂わく、微塵は小に非ず、能く十刹を容る。刹海は大に非ず、潜かに一塵に入るなり。事を以て理を融ずるが故に、全理に分無きに非ず。謂わく、一多無礙なれば、或いは一法界と云い、或いは諸法界と云う
と説明されている。 また法蔵は、主客の相対の視点から、同書において別に
- 法法界
- 人法界
- 人法倶融法界
- 人法倶混法界
- 無障擬法界
の五法界説も提示している。
のち、第四祖澄観は、新たに
- 事法界
- 理法界
- 理事無礙法界
- 事事無礙法界
の四法界説をとなえた〔『法界玄鏡』〕。 この説は、初祖杜順に帰せられる『法界観門』の実践思想にみごとに対応することなどから、やがて華厳教学を代表する法界論となった。この四法界説における「法界」は、真如の意味を含みながらも、現在用いられる意味での「世界」と少なくとも表面的にはほとんど同義であると考えられる。
経典の語
経典にある言葉を法界と言う場合がある。
- 一切事法を増上する名句文身を説いて名づけて法界と為す 〔瑜伽師地論94、T30-834c〕