「ひがん」の版間の差分
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+ | 彼岸に渡り切ってしまえば、修行などはもはや無用なものとして捨てられる。筏は単なる手立てであって、渡るための手段に過ぎない。<br> | ||
+ | 釈尊は、世間をことさら粗略に扱うということはないのだが、しかし究極的には世間のことには無関心であった。この無関心のことを漢訳仏典は「'''捨'''」としている。<br> | ||
+ | この「捨」は目立たない術語ではあるが、これこそ釈尊の究極の目標、つまり生きていくことに何ら目標を与えない、最大の課題であったと思われる。 |
2024年8月5日 (月) 13:51時点における最新版
彼岸
pārimaṃ पारिमँ、tīraṃ तीरँ、paryavasāna पर्यवसान (skt.)
かなたの岸、目指す理想の境地のこと。
煩悩の激流ないし海の「此岸(しがん)」から、修行によってそれを渡り切った向こう岸、つまり輪廻を超えた涅槃の境地のこと。
わが国では、古くからの習俗と混交して、3月の春分と9月の秋分にそれぞれ7日間行われる「彼岸会(ひがんえ)」のことを指す。
なお、菩薩の修行徳目であるさまざまな修行の完成である波羅蜜(pāramitā)は、「到彼岸」とか「度(渡)」と漢訳されることもある。
誤読
pāraṃ=iti 「彼岸に至ることを目指す行を修する」この言葉は、「pāramitiyām」となるべきであるのに、誤読されて「pāramitāyām」とされ、「pāramitā」が元だとされた。そのため、「到彼岸」と理解されたのである。
注意すべきは、原義は「彼岸に至ることを目指す行を修する」ということである。
渡り切った態度
彼岸に渡り切ってしまえば、修行などはもはや無用なものとして捨てられる。筏は単なる手立てであって、渡るための手段に過ぎない。
釈尊は、世間をことさら粗略に扱うということはないのだが、しかし究極的には世間のことには無関心であった。この無関心のことを漢訳仏典は「捨」としている。
この「捨」は目立たない術語ではあるが、これこそ釈尊の究極の目標、つまり生きていくことに何ら目標を与えない、最大の課題であったと思われる。