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釈迦はこのような実我を「我として認められるものはない」として、'''諸法無我'''と説いた。これを色受想行識の[[ごうん|五薀]]について説き、人間生存は無我である五薀の仮和合したものであるから仮りの存在であると説いた。<br> | 釈迦はこのような実我を「我として認められるものはない」として、'''諸法無我'''と説いた。これを色受想行識の[[ごうん|五薀]]について説き、人間生存は無我である五薀の仮和合したものであるから仮りの存在であると説いた。<br> | ||
2011年6月22日 (水) 12:50時点における版
我
aatman आत्मन्(sanskrit)、attan अत्तञ्(pali)
仏教ではその教義的立場から、我というものに関して、実我(じつが)、仮我(けが)、真我(しんが)という区別を説いている。
このうち、「実我」(aatman)については、仏教はこれを否認して無我(anaatman अनात्मन्)といい、非我(niraatman निरात्मन्)という。この語が存在について、その本質とか自性とかを意味するようになり、後には万物の髄とか本体とかを示すようになり、ことに人間の生命現象の奥に潜んでいる本質存在と考えられるようになった。
ウパニシャッドの我
このような「実我」は仏教以前のウパニシャッド哲学で力説され、一方に「ブラーフマン」(梵、braahman)との相即がいわれた。
五薀仮和合
仏教では、ここで説かれるような実我を常一主宰と規定付けた。すなわち、我は、常住であり、他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え、それは働きのうえで自由自在の力をもつとした。この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである。
釈迦はこのような実我を「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた。これを色受想行識の五薀について説き、人間生存は無我である五薀の仮和合したものであるから仮りの存在であると説いた。
補特伽羅説
この点を強調した仏教徒たちは、かえって、この仮和合の仮有に執着し、要素への分析が我執の除去であることを忘れ、人間生存への真面目な努力を無視するようなことになり、人格を見失うようになった。これを回復しようとしたのが、犢子部(とくしぶ)の補特伽羅(ふとがら、pudgala)であった。すなわち、存在を精神や物質の諸要素に分析し、さらに両者の結合を要素的な力に分析した考えに対して、これらを統一し人格付与の働きを補特伽羅としたのである。しかし、このような立場が一種の我的なものへの執着となることもありうる。このような傾向に対して、この無我を救うものとして、縁起の施設我、仮我を主張する考えがあらわれた。
龍樹の我
龍樹(150年-250年)の大智度論 に「問うて曰く、若し仏法中に一切法は空にして一切に我あること無しといわば、いかんが仏の経に初頭に如是我聞というや」と問い、「無我は了解しているが、俗法に随って我といったので、それは実我ではない」といっているのは、これを示している。
世親の我
この点、一般的に「我」「私」とかいうのは仮我についていうので自他を区別するためである。しかし、それでは、その「我」とか「私」とかが自他を区別する為であるとしても、いったい、それは何についていわれるかという点で、世親(320年-400年)は「仮によって我法と説く、種々の相転ずることあり、彼は識が所変による」と説いて、唯識といい、阿頼耶識のうえに我を仮説することを示している。
大我
このように仏教の教えは、今日ここにいる「私」自身がとらえらるべき何ものかとしてあるのではなくして、縁起においてあることを、いろいろな形で追及してゆく。空性というのも、如来蔵というのも、仏性というのも、この「私」の追及のうえにもとめられた姿に名付けたものである。
真我とは大我ともいわれ「パラマートマン」(parama-aatman)であり、最高の我の意味である。もちろん、この我は外道の我でなく、仏果の徳の上につけた名である。すなわち涅槃といわれるさとりは真実であるからと、その悟りの世界はいっさいの繋縛をはなれて完全自由であるからとの両面より、さとりのうえに大我の徳を認めるのである。