「せんじゃくしゅう」の版間の差分
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* 浄土真宗では「選択」を「せんじゃく」とよむ。 | * 浄土真宗では「選択」を「せんじゃく」とよむ。 | ||
− | [[まっぽう|末法]]においては[[しょうみょう|称名]][[ねんぶつ|念仏]]だけが相応の教えであり、[[しょうどうもん|聖道門]](しょうどうもん)を捨てて[[じょうどもん|浄土門]]に帰すべきで、[[ぞうぎょう|雑行]]を捨てて念仏の正行(しょうぎょう)に帰入すべきと説いている。それまでの[[かんそう|観想]]念仏を排して[[あみだ|阿弥陀]]仏の[[ほんがん|本願]]を称名念仏に集約することで、[[ぶっきょう|仏教]]を民衆に開放することとなり、[[じょうどきょう|浄土教]]の歴史の中で画期的な意義を持つ論文である。 | + | [[まっぽう|末法]]においては[[しょうみょう|称名]][[ねんぶつ|念仏]]だけが相応の教えであり、[[しょうどうもん|聖道門]](しょうどうもん)を捨てて[[じょうどもん|浄土門]]に帰すべきで、[[ぞうぎょう|雑行]]を捨てて念仏の正行(しょうぎょう)に帰入すべきと説いている。それまでの[[かんそう|観想]]念仏を排して[[あみだ|阿弥陀]]仏の[[ほんがん|本願]]を称名念仏に集約することで、[[ぶっきょう|仏教]]を民衆に開放することとなり、[[じょうどきょう|浄土教]]の歴史の中で画期的な意義を持つ論文である。 |
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− | + | 選択本願([[だいじゅうはちがん|第十八願]])に立脚して称名一行の専修を主張し、[[じょうどしゅう|浄土宗]]の独立を宣言した、浄土宗の立教開宗の書である。<br> | |
− | + | 冒頭に「南無阿弥陀仏、往生之業、念仏為先(本)」と念仏往生の宗義を標示し、以下十六章に分けて、称名念仏こそが、選択の行業である旨を述べている。<br> | |
− | + | 各章ともに、標章の文、引文、私釈の順で構成している。標章の文は主題を簡潔に示し、引文では標章の文を証明する経典や解釈の文を引き、私釈では「わたくしにいはく」として法然自身の解義が明示している。 | |
− | + | なかでも第一の二門章、第二の二行章、第三の本願章の三章には、本書の要義が説かれる。二門章では、[[どうしゃく|道綽]]によって仏教を聖道門と浄土門に分け、聖道門を廃し、浄土宗の独立を宣言し、そのよりどころを三経一論(''浄土三部経'' と''浄土論'' )と定め、それが、[[どんらん|曇鸞]]・道綽・[[ぜんどう|善導]]などの師資相承によることを示す。二行章では、善導の''観経疏''(就行立信釈)などをうけて、五正行のなか、称名念仏こそ、仏願にかなった往生の正定業であることを説明し、雑行は捨てるべきであることを示し、本願章では、第十八願において、[[ほうぞう|法蔵]][[ぼさつ|菩薩]]は一切の余行を選捨して、念仏一行を選取されたといい、その理由は称名念仏こそが、最も勝れ、また最も修めやすい勝易具足の行法だからであると説いた。<br> | |
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2008年1月14日 (月) 19:45時点における版
選択集
「せんちゃくしゅう」と読むのが正しい
建久9年(1198年)、関白九条兼実の要請によって、法然が著した2巻16章の論文。具名は『選択本願念仏集』(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)であり、浄土三部経の経文を引用し、それに対する善導の解釈を引き、さらに法然自身の考えを述べている。
- 浄土真宗では「選択」を「せんじゃく」とよむ。
末法においては称名念仏だけが相応の教えであり、聖道門(しょうどうもん)を捨てて浄土門に帰すべきで、雑行を捨てて念仏の正行(しょうぎょう)に帰入すべきと説いている。それまでの観想念仏を排して阿弥陀仏の本願を称名念仏に集約することで、仏教を民衆に開放することとなり、浄土教の歴史の中で画期的な意義を持つ論文である。
内容
選択本願(第十八願)に立脚して称名一行の専修を主張し、浄土宗の独立を宣言した、浄土宗の立教開宗の書である。
冒頭に「南無阿弥陀仏、往生之業、念仏為先(本)」と念仏往生の宗義を標示し、以下十六章に分けて、称名念仏こそが、選択の行業である旨を述べている。
各章ともに、標章の文、引文、私釈の順で構成している。標章の文は主題を簡潔に示し、引文では標章の文を証明する経典や解釈の文を引き、私釈では「わたくしにいはく」として法然自身の解義が明示している。
なかでも第一の二門章、第二の二行章、第三の本願章の三章には、本書の要義が説かれる。二門章では、道綽によって仏教を聖道門と浄土門に分け、聖道門を廃し、浄土宗の独立を宣言し、そのよりどころを三経一論(浄土三部経 と浄土論 )と定め、それが、曇鸞・道綽・善導などの師資相承によることを示す。二行章では、善導の観経疏(就行立信釈)などをうけて、五正行のなか、称名念仏こそ、仏願にかなった往生の正定業であることを説明し、雑行は捨てるべきであることを示し、本願章では、第十八願において、法蔵菩薩は一切の余行を選捨して、念仏一行を選取されたといい、その理由は称名念仏こそが、最も勝れ、また最も修めやすい勝易具足の行法だからであると説いた。
この三章の意をまとめたものが本書の結論ともいうべき「三選の文」(結勧の文)であり、それが初めの題号および標宗の文とも呼応している。