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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(自相)
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 [[じんな|陳那]]は、その存在を認識する場合に、認識そのものであり、概念作用を伴わない認識を[[げんりょう|現量]]と呼び、対象そのものの個別相を認識することであると規定している。
 
 [[じんな|陳那]]は、その存在を認識する場合に、認識そのものであり、概念作用を伴わない認識を[[げんりょう|現量]]と呼び、対象そのものの個別相を認識することであると規定している。
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 [[ほっしょう|法称]](ダルマキールティ)の『量評釈(Pramāṇavārttika)』などによれば、われわれを欺かない正しい認識(pramāṇa)は現量と[[ひりょう|比量]]との2種にかぎられる。なぜなら認識の対象が2種のみであるからという。<br>
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 現量の対象は'''自相'''(svalakṣaṇa)といわれ、その特質は
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# 有効な作用能力があり(arthakriyā-śakti)
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# 他と類似しない独自の相を有し
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# 言葉の対象とならず
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# 他の因、たとえば作意などがなくてもそれ自体で知が生ずるもの、
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である。(特に第一の定義はダルマキールティ独自のものであるといわれる)。<br>
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 たとえば赤い花に対して近接しているかいないかによってその影像の明瞭度に差異があるならば、その影像は自相である。自相のみが真実在であり、比量の対象である[[ぐうそう|共相]](sāmānyalakṣaṇa)は世俗的存在である。<br>
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 現量の種類は
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# 感官知  indriya-jñāna
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# 意知   manovijñāna
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# 自証知  svasaṃvedana
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# ヨーガ行者の知 yogijñāna
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であるとし、現量に似て非なるもの([[じげんりょう|似現量]])は蜃気楼などの錯乱知など4種であるという。彼においては「'''有効な作用能力のある影像(image)のみ'''」があるだけであって、ニヤーヤ派が主張するように感官と対象とが結合して認識作用があり、その結果知識が認識主体に生ずるといった実在論を強く批難した。<br>
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 それに対し、認識の手段と結果とは異ならず、認識対象と認識主体とは異ならないような唯識説に立つことによって、無常・無我、無自性・空の体現者である仏陀の教えを明らかにしようとした。

2019年12月16日 (月) 08:51時点における最新版

自相

svalakṣaṇa (skt.)

 個別のをいう。

自相を持するが故に法である    〔倶舎論

とあるように、個別の相を有しているから存在が認識できる。

 陳那は、その存在を認識する場合に、認識そのものであり、概念作用を伴わない認識を現量と呼び、対象そのものの個別相を認識することであると規定している。

 法称(ダルマキールティ)の『量評釈(Pramāṇavārttika)』などによれば、われわれを欺かない正しい認識(pramāṇa)は現量と比量との2種にかぎられる。なぜなら認識の対象が2種のみであるからという。
 現量の対象は自相(svalakṣaṇa)といわれ、その特質は

  1. 有効な作用能力があり(arthakriyā-śakti)
  2. 他と類似しない独自の相を有し
  3. 言葉の対象とならず
  4. 他の因、たとえば作意などがなくてもそれ自体で知が生ずるもの、

である。(特に第一の定義はダルマキールティ独自のものであるといわれる)。
 たとえば赤い花に対して近接しているかいないかによってその影像の明瞭度に差異があるならば、その影像は自相である。自相のみが真実在であり、比量の対象である共相(sāmānyalakṣaṇa)は世俗的存在である。
 現量の種類は

  1. 感官知  indriya-jñāna
  2. 意知   manovijñāna
  3. 自証知  svasaṃvedana
  4. ヨーガ行者の知 yogijñāna

であるとし、現量に似て非なるもの(似現量)は蜃気楼などの錯乱知など4種であるという。彼においては「有効な作用能力のある影像(image)のみ」があるだけであって、ニヤーヤ派が主張するように感官と対象とが結合して認識作用があり、その結果知識が認識主体に生ずるといった実在論を強く批難した。
 それに対し、認識の手段と結果とは異ならず、認識対象と認識主体とは異ならないような唯識説に立つことによって、無常・無我、無自性・空の体現者である仏陀の教えを明らかにしようとした。