りょう
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
了
量
pramāṇa प्रमाण (S)
因明などで使われる術語であり、「正智の出処」「正智を得る方法」と言える。
pramāṇa を pra + √mā + ana と分解して考えると、
- pra =valid, true.
- √mā >māṇa =knowledge
- ana =mean, orgin, instrument.
という意味であるところからくる。
陳那は、一般に作具態で解釈していた ana を、作業態で解釈して、「能量即所量」と解釈している。
正智の決定は、量にのみよるものであり、如実智見である第一義智の成就もまた、合理と論証によるものであるとする。これが後世「仏教論理学派」とも呼ばれることとなる陳那の系列の考え方であった。
この考え方の基盤は釈迦在世当時から言われていたことであるが、釈迦の言葉が経典や戒律として定型化するに随って、自らの論証を捨てて聖教の言葉を規範とし始めた。もちろん、他の教徒にとってはごく普通のことではあるが、仏教では基本的に自らが論証することが第一義であるとしていた。
この立場を鮮明にしたのが、聖教量を捨てて、現量と比量の2量のみを採用した陳那の功績である。さらに釈迦のさとりが無分別智であることから、現量がもっとも正しい智であり、比量は第二義的なものであるとした。これは、中観派の言う真俗二諦にも通じる。
対象を量(はか)り知り認識論証すること。その量知する主体を能量、量知されることがらを所量、量知された結果、または結果を知るものを量果といい、これを三量という。
唯識宗では4分説の見分・相分・自証分が順次にこれら三量に当たるとする〔成唯識論2〕。また、どのような方法で量知されるかに従って種々の量が説かれる。
- 現量とは比知推度をまじえない直覚的認識であって、前五識、前五識と同時に起こる意識、自証分、定心などの無分別心によるものである。例えば眼識が色境を認識する場合は現量である。
- 比量とは既知の事実を因として未知の事実を比知する推理的認識であって、前五識と同時に起こらない散地の意識によるものであり、例えば煙のあることによって火の存在を知るような場合である。
- 聖教量は正教量、至教量、声量ともいい、聖者のことばには誤りはないものとしてこれによって種々の義を量知するのをいう。
- 非量は似量ともいい、似て非なる誤った現量および比量、即ち似現量と似比量とをいう。例えば衣は色などの四塵の他に別の自体がないにもかかわらず、有分別心によって「衣は実在する」とするなどは似現量であり、霧を見て煙とし、それによって火の存在を証明しようとするなどは似比量である。
このうち、現量・比量・非量の3を、あるいは現量・比量・聖教量の3を「三量」という。また現量と比量とは非量に対しては真現量・真比量と称される。比量に自比量(自比ともいい、自己のための比量で、智を本質とし、この場合は必ずしも他に発表することを要しない)と他比量(他比ともいい、他のための比量で、自比量による認識の智を他に語る場合の比量)とがある。
また
- 自比量 自己のみが許して他が許さない理由根拠、即ち因によって立てられた比重
- 他比量 他のみが許して自己が許さない比量
- 共比量 共比ともいい、自他ともに許す比量
を三比量という。
また
- 相比量 煙の相を見て火の存在を推知するように、ものの相、即ちすがたに関する比量
- 体比量 現在の体を見て過去、未来の体を推知するように、ものの自体に関する比量
- 業比量 草木の動揺するのを見て風のあることを知るように、作用、即ちもののはたらきを見て、その作用の拠り所を推知すること
- 法比量 無常であることによって苦であることを知るように、相互に親しい関係にある法の間で、一によって他を推知すること
- 因果比量 因によって果を、果によって因を推知すること
を五種比量という。
仏教では古くは現量・比量・聖教量の三量を説き、また
- 4. 譬喩量 牛によって水牛を知るように、類似のものによってそのものを知ること
を加えた四量、
- 5. 義准量 例えば無常であるものは必ず無我であるから、法が無我であることに准じて無常であることを知るようなもの
を加えた五量
- 6. 無体量 例えば部屋の中へ入って主人が不在であることを知ることによっていまいる場所を知るようなもの
を加えた六量などをも立てたが、陳那に至って現量・比量の二量説にまとめられた〔因明入正理論疏巻上本〕。