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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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無為

 asaṃskṛta「造られたものでないもの」の意。為作・造作を有しないもの。すなわち、因縁和合によって生滅する諸法を有為と称するのに対して、為作・造作を離れ、常住にして不生不滅なるものを無為という。原始仏教においては、最高の理想である涅槃を指して、生滅なき点よりして「無為」と名づけた。部派仏教においては、不変化の点からして有為法と対立するもの、あるいは有為法の根底をなすものとしての無為法が考えられて後世の大乗・唯識仏教へとよりくわしく考察されていった。仏教諸派により三無為、六無為、九無為などが立てられる。

三無為

 部派仏教中の説一切有部によって主張される。一に択滅無為とは択力所得の滅による無為である。すなわち汚れなき智慧の力により煩悩を断ずるところに現われる無為をいう。択滅の数は煩悩の数とひとしいとされる。二に非択滅無為とは択力によらず、縁欠不生により、生ずべきが未来にとどまり生じないところに名づける。三に虚空無為とは無礙、すなわち諸法が存在するうえにおいて障害の無いことをいい、いわば絶対空間ともいうべきものを指す。単なる隙間の空間としての虚空とは異なる〔『倶舎論』巻1〕。他の部派仏教では大衆部や一説部などが九無為説を主張する。

六無為

 大乗仏教の唯識派によって主張される。唯識派による無為は識変法性とにより仮立される。六種の無為を説くけれども法性所顕の縁によりて説くのであり別体はないのである。
 一に虚空無為とは、法性すなわち真如が障害を離れたところに現われる無為である。
 二に択滅無為とは法性の択力で汚れを滅したところに現われる無為である。
 三に非択滅無為とは法性の択力によらず本性清浄あるいは縁欠不生により現われる無為である。
 四に不動無為とは第四静慮に入り、苦楽受の滅を得したところに名づける無為である。
 五に想受滅無為とは非想地の滅受想定に入り、想受の滅を得したところに名づける無為である。
 六に真如無為とは法性が真実如常の相を有するによって名づけたる無為である。
 前の5無為はいずれもこの真如無為によって仮立されたものであり、真如無為も仮名であるが、その体は実有であるとされる。有為と無為とは有部ではまったく関係なく、また唯識仏教においては、「有為無為永別」といわれて、有為の諸法は真如たる無為法から縁起してくるものではないとされ、有為と無為とは能依所依の関係である。これは性相を決判し、真如凝然不作諸法と建てる法相教学よりきたれるものである。これに対し『大乗起信論』など如来蔵思想の系統では真如随縁作諸法といい、有為と無為の交渉を主張する。

中国思想における「無為」

 「何もしない」「人為を加えない」の意である。『論語』衛霊公篇に「無為にして治まるは其れ舜なるか」とあり、人為を用いずに治めるのを政治の理想とし、『老子』天地皆知章には「聖人は無為之事に処り不言之教を行う」として無為を尊ぶべきことを主張している。(小川宏)