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いちほっく

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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一法句

eka-dharma-pada (S)

 世親の浄土論に

一法句といふはいはく、清浄句なり。清浄句といふはいはく、真実智慧・無為法身なり。〔浄土論 P.38〕

とある。そこからの語である。

 一法・真如法性の依事ということで、瑜伽唯識において勝義諦真如を「無」と「無の有」の二面で表わす場合の「無の有」(abhāvasya bhāvaḥ)をいう。真如法性がはたらいて、われわれをしてそれをさとらしめる世間的あらわれであり、浄土の清浄荘厳はまさしくこれである。

 いかなる意味で一法句というかといえば、清浄の義をもっているからである。いかなる意味で清浄というかといえば、真実智慧・無為法身のものだからである。
 真実智慧とは、実相をさとった智慧である。すべて現象して存在するものの実相(ありのま まのすがた)は、一定のかたちのないもの、無相のものであるから、実相をさとった智慧というのは、われわれの分別知を超えたもの、すなわち無知(無分別知)のことである。また無為法身とは法性身のことである。法性とは寂滅のことであるから、法身とは一定のかたちなきもの、すなわち無相のものである。無相のものであるからこそ、法身はあらゆるかたちをとることができる。それ故に、かたちをとってあらわれた如来の相好(三十二相の身体的特徴)・浄土の荘厳(三厳二十九種の円かなしつらい)は、そのままが法身なのである。また無知(無分別知)のものであるからこそ、智慧はすべてのものを知ることができる。それ故に、仏智をさしてすべてのものを知る智慧というが、これは真実智慧のことなのである。真実と智慧を同義語とみて、真実智慧(真実という智慧)というのは、智慧は作用するものでもなく、また作用しないものでもないことを説くためである。同じく無為法身の場合も、無為という語をもって法身の意味を顕わすのは、法身はいろ・かたちのあるものでもなく、いろ・かたちのないものでもないことを明かすためである。