かほう
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
2010年9月8日 (水) 08:29時点におけるマイコン坊主 (トーク | 投稿記録)による版 (新しいページ: '=果報= これは旧訳であり、新訳では異熟とする。 '''果報'''とは、我々の現在の[[きょうがい|...')
果報
果報とは、我々の現在の境界は、過去の業因の結果であるから果といい、またその業因に応じて報いたものであるから報という。このように、果といおうが報といおうが、その体は一つであり、一切の衆生が生から死に至るまでの間に、自ら感受する吉凶のことを総括して果報という。
この果報の二字を分別すれば、『法華経』方便品の十如是を明かす中に、因縁果報の四に分けて説明しており、因に対して果、縁に対して報というのが定まりであるとしている。正しく果を生ずべきものを因と言い、その因を助けて果をとらせるものを縁と言う。
たとえば、米の種は因であり、農夫の力や雨露の潤いなどは縁である。これによって、当年の米が成熟した時に、昨年の米に対していえばこれは果であって、昨年の農夫雨露に対していえば報である。このように、我々は元々それぞれ三界の果を生ずべき種を具えており、これを因という。その時に、悪業をつくれば地獄界の因を助けて地獄の果を感ぜしめ、善業をなせば人間天上界の果を招く。すなわち、善悪の業を三界の果に対すれば、因ではなく縁である。よってこの縁に望めて、三界の果に、さらに報の名を与えている。
ただし、これは因縁果報を分けて詳らかに義理を論じたまでのことで、果報の物体<もったい>は二つが異なるものではない。
さて、果報の状体には苦楽好醜などの差別があるが、その性質としては悪性でも善性でもなく、無記性である。