ゆう
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
用
つまり、因と縁はすべて「はたらき」を指している。その結果として、眼に見える形となったものが六処・色なのであって、そこに実体はない。その「はたらき」の動きを見るのが仏教の観察である。決して色を観ることが観察ではない。そのために「観」という字を使っていると思われる。たとえば「観音」というのがそれである。
とすると、すべては空としか言いようがないのであって、色(=モノ)があるとかないとかいうのは、不毛な議論としか言いようがない。
「我」は、それらのはたらきによって、この場この時に存在しているように思われるだけのことであり、空であると言わねばならない。
しかしながら、妄想であったとしても、人間が得る感覚・意識というものを否定することはできない。それは人間が生きている証しでもある。そこで、その妄想の本質を追求しようとしたものが唯識であり、妄想の動きを把握しようとしたものである。
釈尊のさとりは、この世のすべてが動きによって成り立っていることを観察したことによる。そのため諸行無常というのは、苦と受容しようがしまいが、それがすべてであることを明示した言葉なのである。そこから演繹されるのが諸法無我ではあるが、二義的な結論であろう。それがわが身に振り返った時に、一切皆苦であり、さとりを得たことによってすべてが空となり涅槃寂静となるのである。
先にも述べたように、わが身を見た時に、自らの六処を維持しなくてはならない。わが身という色を維持するためには、様々な生理作用を維持する必要がある。そのために他者を抹殺しなくてはならない。それが動物であったとしても植物であったとしても、他者を抹殺しなくては、自らを維持することはできない。
釈尊がさとった直後に「このままでいよう」とされたのは、緩慢な自殺である。それは縁起のままに生きていこうとされた姿でもあった。つまり、人間は他者を殺すことによってでしか生きられない、という内省の上に立った結論であっただろう。