操作

しょうじそくねはん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

生死即涅槃

 さとった仏智をもってみれば、迷える衆生の生死そのままが不生不滅である清浄なニルヴァーナの境界である、という意味である。常に煩悩即菩提と対句で用いられる。

 往還廻向の南無阿弥陀仏を信ずれば、生死の迷にありながらももはや再び迷はず、故に生死さながら涅槃なりと云ふ。    〔正信偈

生死即涅槃

 生死涅槃とが、相即不二であるという意味である。

 生死は即ち涅槃なり、二つは此彼なきが故なり。是の故に生死に於いて捨に非ず非捨に非ず。涅槃に於いても亦爾り、得なく不得なし。〔真諦訳、摂大乗論下、T31.0129b〕

と言い、これを解釈して、

 不浄品を生死と名づけ、浄品を涅槃と名づく。生死虚妄にして人法二我なき即ち是れ涅槃なり。無分別智を得て生死の無所有なるを見ば、即ち是れ涅槃の無所有なるを見る。故に此彼の異なし。若し此の智を得ば何の功能ありや。(中略)無我を観ずと雖も生死を離れず、是れ非捨の義なり。生死に在りと雖も常に無我を観ず、是れ非非捨なり。若し爾らば涅槃に於いては云何。(中略)生死を離れて別法なきを涅槃と名づく。菩薩は既に生死を得ざれば亦涅槃を得ず、是れ無得の義なり。菩薩は生死に於いて常に勝妙寂静を観ず。是れ無不得の義なり。〔摂大乗論釈13、T31.0249b〕

と言っている。これは不浄品を生死、浄品を涅槃と名づけ、もし無分別智を得れば生死即涅槃であり、ともに無所有であって此彼の異なることがない、ということを知るべきである。

 また、曇鸞

 一道とは無礙道なり、無礙とは謂はく生死即ち是れ涅槃なりと知るなり。是の如き等の入不二の法門は無礙の相なり。〔往生論註下、T40.0843c〕

と言い、[ちぎ|智顗]]は

 若し涅槃即生死なるを知らば是れを無作の苦諦と為し、若し菩提即煩悩なるを知らば是れを無作の集諦と為し、若し生死即涅槃なるを知らば是れを無作の滅諦と為す。若し煩悩即菩提なるを知らば是れを無作の道諦と為す。秪(タ)だ非生死非涅槃、非菩提非煩悩なるは是れ一実諦なり。此の四諦を論ぜば即ち是れ無作の四実諦なり。〔四教義、T46.0761b〕

と言い、

 圓頓とは初より実相を縁ず、境に造(イタ)るに即ち中なり、真実ならざることなし。縁を法界に繋け、念を法界に一(ヒト)しふす。一色一香中道に非ざることなし。己界及び仏界衆生界も亦然り。陰入皆如なれば苦として捨つベきなく、無明塵労即ち是れ菩提なれば集として断ずべきなく、辺邪皆中正なれば道として修すべきなく、生死即涅槃なれば滅の証すべきなし。苦なく集なきが故に世間なく、道なく滅なきが故に出世間なく、純一実相にして実相の外に更に別の法なし。〔摩訶止観1上、T46.0001c〕

と言っている。
 これはみんな生死即涅槃であるから、苦の捨てるべき滅を証することなく、煩悩即菩提であるから、集を断ずべき道の修すべきものがないことを説いて、これによって諸法実相の意味を明らかにしているのである。

 さらに親鸞聖人は、阿弥陀如来の利他回向によって先に引いた曇鸞の「無礙道」を得として、

能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃(中略)惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃〔行文類〕

 と讃じ、

往相の回向ととくことは 弥陀の方便ときいたり 悲願の信行えしむれば 生死すなはち涅槃なり〔高僧和讃、p.584〕

と詠じている。
 これはすなわち恵心流の本覚法門の説を承けたものだと言うべきであろう。